45 昨日に変はりたりとは見えねど

1999.1


かくて明けゆく空の気色、昨日に変はりたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

 徒然草の第19段の末尾、新年の気分を記した部分である。暮れの31日から、たった1日しか経っていないのに、元日の朝の空は、確かに「ひきかへめづらしき心地」がするものだ。車も少なく、人も初詣の人ばかりで、通勤する人もいないから、「松立てわたして」なくても、やはり元日の朝は、すがすがしいものだし、気持ちがすっかり新たになったような、さっぱりした気分にさせてくれる。

 徒然草が書かれてから、そろそろ700年にもなろうというのに、なお元日の朝の感じ方においては、ちっとも変わっていないなんて、なんてすごいことなんだろうと思っていた。

 そうだよね、元日の朝というのは、何だかとっても新鮮で、まるで昨日とは違ったように感じられるよね、と、ある時高3の授業の中で言って、とまどった。うなずいている生徒があんまりいないのである。えっ、そう感じないの? 感じるでしょ? と言っても、彼らは「別にそんなことないよなあ」などと言っている。

 共感を示されないことなら、今に始まったことではない。はるかに広がる砂漠に向かってしゃべっているような気分になったことも数知れない。確かに、平安時代の暇な貴族の恋なんて、ついてけないぐらい退屈に思われたって仕方ないし、兼好法師の味わい深い思想が、まだ年若い高校生にそんなにすんなり分かられても困るということもある。

 しかしである。この元日の朝のくだりに共感できないとなると、ただ事じゃない。人の話によれば、欧米の人間は、こんなふうな元日の朝への感慨はないという。それこそ「昨日に変はりたりとは見えぬ」でおしまい。大晦日に、大声でカウントダウンはやっても、こんなしみじみした情感はないらしいのである。

 ぼくは、決して国粋主義者ではないし、頑固ジジイでもない。しかし、兼好法師から700年たっても、同じように感じられたことが、ぼくよりたった30年後に生まれた人間にもう分からないというのは、寂しいというよりは、コワイものを感じるのだ。

 今年は、とうとう1999年。21世紀へのカウントダウンに浮かれるよりは、じっくり古典に沈潜してみたい。