43 現場主義は絶対か

1998.12


 

 水彩でスケッチをする場合、どこまで現場で仕上げるかという問題がある。いや、そもそも、現場でスケッチするかどうかという問題まである。つまり写真を使うことの是非である。

 友人の若い画家に、そのことについて尋ねると、「いいんじゃないですか、どこで描いたって。絵は自由ですよ。写真だってどんどん使えばいいんです。」といつも答える。

 先日、ある所で飲んでいて、水彩のスケッチを趣味とする人と話したとき、彼に「絵は、やはり現場で描くんですか?」と聞いてみた。すると自分の絵を手にした彼は「もちろんです。色も、現場でつけます。そうしないと、その場の空気がかけないんです。写真を見て描くなんていう人もいますが、ダメですよ。」と即座に答えた。ぼくには、その絵がその場の「空気」を描けていたか、はなはだ心許なかったが、そういうふうに自信をもって言われると、やはり「空気」が描けているようにも思われてきた。所詮「空気」なのだから、感じるより仕方がない。あると言えばある、ないと言えばない、みたいなものだ。

 水彩スケッチをやる人のほとんどは、おそらく、この人のように「現場で描く」派、のようだ。技法書のほとんども、「現場で描く」ことを金科玉条のように掲げている。それはそれで一つの立場だから、いっこうに構わないのだが、では現場で描きさえすれば、いい絵ができるのかというと、それは疑問である。寒い冬など、かじかんだ手で、現場に何十分も座り込んで、果たしてまともな絵が描けるものだろうか。あるいは、人通りの多い町中で、好奇の目でのぞき込む視線を感じながら、落ち着かない気持ちで描くことが絶対必要だろうか。そうしなければダメだというのは、悪しき精神主義ではなかろうか。

 ぼくは友人の画家のいうことを信じて、「どちらでもいい」派である。現場で描くこともある。(彩色までは絶対しない)また、写真から描くこともある。「空気」を描くことは、ぼくの目標でもあるが、「空気」は神秘的なものでなはなく、「技術」によって描けると思っている。外で描かなければ「空気」が描けないのなら、印象派以前の大画家たちは「空気」を描けなかったことになる。そんな馬鹿な話はないのである。