40 光について

1998.12


 

 同じ風景でも、朝と夕は独特の美しさにあふれているのに、どうして昼間は面白味がないのだろう。

 昼間のほぼ真上からさす日の光は、明るく正しい光だ。それはものから陰影を奪い、文字通りすべてを「白日のもとに」さらす。「白日のもとにさらされた」ものは、つまらぬ現実のガラクタにすぎない。

 それくらべて、朝の光は冷たい透明さでものの輪郭をくっきりと強調し、世界の抽象的観念性を際だたせることで、現実を一瞬のうちに本質へと転化してみせる。ぼくらはそのとき、来るべき真昼の苛酷さへの予感の中で、戦う準備をする。まさに身の引き締まる想いというやつだ。

 一方夕日は、その赤味を帯びた光でものの輪郭を溶かし、幻想的な情緒でものを包み込み、やがて来る夜の闇に向かって、ものの内部までもが溶けだしていこうとする。レオナルド・ダ・ビンチはその手記の中で、夕日の美しさについて詳しく述べているということを、もう20年以上も前に、勤務校の美術の先生に聞いた。レオナルドが実際にどのようなことを言っているのか、その手記を読んで確かめることもなく今に至っているが、夕日をみるとレオナルドを思い出す。この美しい光はたしかに時空を越えて愛され続けてきたということが納得されるだけでいい。

 そうした朝と夕に挟まれた昼の世界は、ぼくらに一時の安らぎを与えることもなく、唯一の「正しさ」の論理によって、ぼくらを追い立ててやまない。その「正しさ」に傷つき、しかしなお、そのように生きるしかないぼくらは昼の光を憎悪しつつ耐えている。足の踏み場もない現実のガラクタが、ぼくらをいっそう苛立たせるが、それらを踏みつぶし、蹴っ飛ばしながら、夕方の光を待つしかない。

 ぼくらは、はたして太陽の子だろうか。それとも、月の子なのだろうか。少なくとも、昼の光が明らかにする世界の「正しい秩序」より、すべてをし包み込みみずからの内に溶かし込む夜の闇にこそ、ぼくらの真の安らぎはあるように思うのだが。