38 自信たっぷり

1998.12


 自信たっぷりの人間を見るほど不愉快なことはない。

 若いころは、「確固とした信念」というものにずいぶんあこがれた。自分の考えが、すっきりとまとまらず、どうしていいのか途方にくれていたから、何としても安定した思想や信念が欲しかった。思想的なバックボーンがしっかりしていることが、人生で何よりも大事なことだと思われた。自分の考えを堂々とはっきり言える人間にあこがれたものだ。しかし、近頃は、そうした「信念の人」を見ても、何の感動もない。

 そもそもこの混沌とした世界で、絶対に正しい思想などというものがあるだろうか。もちろんあるかもしれない。その可能性は否定できない。しかし、世に言う不動の信念なる代物は、結局のところ、時代への信じられないほどの鈍感さが生み出す単なる自己主張に過ぎない。何の客観的な根拠もなく、ただ「オレはこう思うんだ」というだけのことを、自信たっぷりに人に押し付けているに過ぎない。そこにあるのは、単なる自己陶酔である。

 こうした手合いはどの世界にもゴマンといるが、とりわけ教師という人種に多いのはやむを得ないことで、それは一種の職業病のようなものだ。しかし、困るのは本人がその病気を自覚していないことである。(自覚さえすれば、病気は治るわけだから、自覚できないということが病気の証拠であるともいえる)

 人にものを教えるという行為は危険なことだ。自分が教えようとしていることの価値についての反省が失われ、教えている自分に酔ってしまうからだ。何しろ相手は生意気ざかりとはいえ、中学生までなら年端もいかない子供である。その前で威張るのはいとも簡単なことだ。

 些細なことについて生徒に注意をする。生徒が反抗する。教師が激昂する。この過程で、教師は「権力者」となってしまう。目の前にいる人間が、「明らかに自分より下」という意識が芽生え、自分の優位性が確信される。それは、平凡な人間にとって、酒よりも甘美な誘惑なのだ。その誘惑から逃れられる教師は少ない。