36 充実へのプレッシャー

1998.11


 

 先日生徒と雑談をしていたとき、「まあ、勉強のことはともかくとして、高校時代や中学時代に、いかに生活が充実していたかってことが問題だと思う。」と言ったところ、ある生徒が「その充実へのプレッシャーってけっこう大きいんですよね。」と言った。ハッと虚をつかれたような思いだった。

 今の生徒を見ていると、何だかだらだらと張りのない生活を送っているような気がして、それがとてももったいないような気持ちになる。だから、何とか彼らが充実した毎日を送ってほしいと思うのだ。「二度と戻ってこない青春の日々を精一杯生きろ」などとテレビドラマの教師でも言わないようなセリフすら言ってしまいそうな気分になるときだってある。

 しかし、「充実へのプレッシャー」があると生徒に言われたとき、ふと自分の高校生のころの気分を思い出した。たしかに、あのころ、毎日は充実などしていなかったし、そもそも「充実した毎日」などという基準など何の意味もなかった。ただただ苦しかった。毎日の勉強が無意味に感じられ、通信簿の成績に一喜一憂する友人に嫌悪を感じながら、結局は自分も同じ穴のムジナであることにやりきれない思いでいっぱいだった。夢や目標がないわけではなかったが、その夢や目標が、ぼくの辛さや苦しさを倍加こそすれ、和らげてくれるものではなかった。

 大人は、若者の「若さ」を自分が失った時間としてしか見ないから、羨ましく感じるばかりだ。あんなに、たっぷりと自由な時間があれば、何だってできるはずだと考える。その気にさえなれば、若さには無限の可能性があるのだから、それにチャレンジしない若者が歯がゆくて見ていられない。だが、そのように感じる大人は、なぜそのように感じる大人となったのか。それは結局のところ、自分が若いとき、その自由な時間を精一杯使って無限の可能性にチャレンジして来なかったからではなかったのか。

 毎日が充実しているに越したことはない。しかし、空しくすぎる一日だってある。それもまた貴重な人生の一日だ。ぼんやり空をみている若者を叱責する権利はだれにもない。