35 蚊を飼う

1998.11


 ハエをハサミで切ることに熱中していた中学生のころだったと思う。

 ある日、突然、蚊を飼いたくなった。ただ飛んでる蚊を捕まえて、それを籠にいれて飼うというのではなく、蚊をつかまえて、卵を生ませ、親にするという飼育である。

 なぜ、そんなことを突然思ったかというと、子供向きの実験・観察の本に、「蚊の飼い方」というのが載っていて、蚊の子供、つまりボウフラのエサには、エビオスの粉がよいと書いてあったからである。エビオスというのは、今でも売られている薬だが、成分がビール酵母ということで、体にいいらしい。普通は、錠剤なのだが、それを粉にしてボウフラに与えるとよく育つと書いてあったわけなのだ。

 それを読んだら、もう、矢も楯もたまらず、蚊を飼いたくなった。何だか、エビオスで蚊を育てるということにものすごいロマンみたいなものを感じたのだ。何事でもそうだが、「入門書」というのは面白くて、とくにびっくりするような技術的なことが紹介されていると、ワクワクしてしまう。

 で、蚊のことだが、その本を読んだのが、冬だったのがまずかった。なにしろ、どこをどうさがしても、蚊はいないのだ。その冬は、蚊の出現を、つまり春のくるのをひたすら待つことになった。もちろん、準備は万端整えた。飲みもしないエビオスを買い込み、錠剤を粉にするために、薬品用の「すりばち」もわざわざ買い、せっせと粉のエビオスをつくって、春を待った。

 待つものはなかなか来ない。待ちわびた春になっても、すぐには蚊は出てこない。たしか、五月ごろだったか、まだ蚊を飼うことにこだわっていたぼくは、とうとうある日、待ちきれなくて、庭に半ズボンをはいて出て、植木の中にたった。蚊がすねにとまるをワクワクしながら待った。はじめて、蚊がぼくのスネだか腕だかにとまったときは、心底感激した。実に変な中学生だったと我ながら思う。

 それから、蚊は順調に、ぼくの血を吸い、卵を生み、卵はボウフラになり、巣立った。エビオスは偉大だった。ちゃんと、エビオスだけで、蚊は育ったのだ。もっとも、ボウフラなんなものは、たいしたエサなどなくても育つようだし、エビオスなんて過剰な栄養だったのに違いない。世にも贅沢な蚊を、空に向かって放してやったのか、それとも、人間に悪さをするからといって即座に殺してしまったのかは覚えていない。楽しい経験だったが、蚊を飼うことはそれでおしまいとなった。