34 あこがれ

1998.11


 高校時代、昼休みなどに校庭でゴロゴロねっころがって、空を見ていることが多かった。

 ぼくの高校は、カトリックの男子校で、当時は生活の細々したことまで決められていたことが多かったのだが、そのひとつに、休み時間には雨が降っていないかぎり、必ず外へ出て遊べということがあった。中学時代は(中高一貫の学校なので)、それでも元気がいいから、みんな喜んで外へ出て結構楽しく遊んだ。しかし、高校生ともなると、何となく物憂くて、元気に遊んでいる奴もいることはいたが、だいたい校庭にゴロゴロと動物園のアシカみたいに転がっていた。かなり、異様な光景だったと思う。

 高校3年のある日、ぼくの横でねっころがっていた友人が、ぽつりと言った。(あるいは何かの話のついでだったかもしれない。)

「オレは、仏教とキリスト教の違いについて研究できるなら一生かけてもいいなあ。」

 ぼくがそれに何と答えたかは記憶にない。しかし、ぼくは深く共感していた。ああ、確かに、一生がそんなふうに過ごせたら、どんなにいいだろうと思った。その時、青空に銀色に輝くヒコーキが飛んでいたというのは、啄木かなにかに触発された勝手なイメージだろうが、学問への深い憧れのようなものを、ぼくらは、受験勉強の彼方にたしかに見ていたように思う。

 彼に、一生をかけてもいいと思わせたそのテーマは、多分、何かの授業から触発されたのだろう。今、ぼくは、その学校の教師として教壇にたっているが、果たして、そのような学問や芸術への憧れを抱かせるような、そんな授業ができているだろうか。いつもそんなことを思う。

 実際には、その友人は、学問の道へは進まなかった。ぼくも、学問一筋という生活にあこがれながら、結局は、そういう道を歩むことはできなかった。けれども、いつもそのような生活、ひとつの世界をどこまでも深く追求し、その世界の神髄を究めるような生活にうずくような憧れを感じているのだ。