30 大人になれない

1998.10


 大人になるっていうことは、祝儀袋にいくら包むとか、焼香のやり方を熟知しているとかいった形式を身につけることにすぎないってことに気づいて、何だ大人になるって簡単なことだったんだと友人の呉智英と電話で話し合ったということを中野翠がもう10年も前に書いていたのを、文庫本の「最新刊」(文春文庫)で読んだ。

 中野によると、そういう形式を教育してくれるのが「会社」なのだそうで、なるほどそれなら教師がいつまでたっても大人になれないのも無理はない。「学校」ほど「会社」から遠い組織はないからだ。

 最近は、父母面談をしても、大方の父母がぼくより年下という状況になってきたにも関わらず、特に父親の前に出ると、ひどく自分が幼稚に思えて、内心ひどくオドオドしてしまう。同級生の友人でも、銀行員になっている者などは、笑い方からして違う。いわゆる豪傑笑いのような笑いかたを平気でする。そういう奴の前に出ると、こっちは、普段「ヒッヒッヒッ」という気持ち悪い笑い方ばかりしているから、なんだか下等動物にでもなったような気分になる。

 パチンコや競馬、麻雀にゴルフといった遊びをそれなりにキチンとこなすのが、大人だというふうにぼくは何となく思っていて、そのどれ一つとしてキチンとやったことのないぼくは、どうもいまひとつ大人として完成度に欠ける。いや、それどころではない、だいたい大人というものは、財布にいつも最低でも3万円は入っているものだろうが、ぼくなどは1万円以上入っていることはまずないから、(あげくの果てに、財布を忘れて、学校の同僚に「パン買うから、500円貸して」なんて言ってるわけだから)まあ、大の大人というには程遠いわけである。

 そんなぼくを少年のようだと評してくれる有り難い人もいないではないが、もうじき50歳の少年というのも、なんとも気持ちがわるくてやりきれない。こうした不安定な自己を抱えた中年というのもなかなか辛いものがあり、いっそ早く少年のようなジジイになってしまいたいと思う今日この頃なのである。