29 しみじみ聴きたいジャズなのに

1998.10


 人が話しているのに、ちゃんと聞かないということが、あまりに日常的になってしまっていて、いちいち失礼な、などと言って怒っていたら身がもたないけれど、こと音楽の場合なら、人が目の前で演奏していて、しかもそれに対してお金を払っているのなら、とうぜん静かに耳を傾けるだろうという常識もなかなか通用しない昨今である。もちろん、それがクラッシックのコンサートであるならば、いくら何でもコンサートの間中隣の友人と話をしっぱなし、ということはないのだろうけど、ことジャズというジャンルになると、なかなかそうはいかない。ジャズだろうが、クラッシックだろうが、はたまた落語だろうが、講談だろうが、あるいはまたどんと「単価」が安い高校の授業だって、人が真剣に何かを訴えているときに、それを無視して関係のない話をするというのは、文明社会では許されない野蛮な行為である。どうして、そのような蛮行が横行するのか、とんと合点がゆかぬ。

 ぼくは、昔自費で出した詩集のあとがきに、「酒場のカウンターに坐って、ゆっくりウイスキーでも飲みながら、隣にいる気のおけない友人に向かって、時のたつのも忘れて、自分の思っていること、夢見ている(あるいは夢見ていた)こと、後悔していることなどを、しみじみ語るような気分で、ぼくはこの本を『あなた』にお渡ししようと思います。」と書いた。もう15年も前のことだが、ぼくらのすべての表現行為はこういうものだという認識は、いまもまったく変わらない。

 ジャズを酒場のBGMとしか考えない者が大勢いるのは確かなことで、かの有名なピアニスト、ビル・エバンスのライブ録音にしても、大声で話している奴の声がちゃんと入っている。まして、日本の横浜の小さい酒場でひっそりと行われているジャズのライブで、その客が音楽に耳傾けないのを怒るのはどだい無理な話だと言われるかもしれない。しかし、ジャズミュージシャンは、しみじみと時を忘れて、自分の思いを語っているのだ。それをぼくはしみじみ聴きたいのだ。小さいライブであればあるほど、親密な「対話」ができるはずではないか。それなのに、演奏を無視して大声でさわぐ馬鹿がいる。思わず怒鳴ってしまって、結局後味の悪い思いをし、その柄の悪い怒鳴り方を反省もしたのだが、ここんとこちゃんと分かってもらいたいとつくづく思う今日この頃なのである。