28 ああ、ウットウシイ

1998.9


 老人というのはウットウシイものである。高齢化社会というのは、ウットウシイ社会ということである。

 老人の何がウットウシイのか。頑固な信念がウットウシイのである。自分の価値観で、他人の価値観に介入してくるからウットウシイのである。

 新聞の投書欄はウットウシイ意見に満ちあふれている。60歳・無職などとなっていたら、ウッウトシサは折り紙つきだが、近頃は30歳台でもけっこうウットウシイ意見が多い。いや、小学生だってウットウシイのが多いが、もちろんこれは親や教師の受け売りに過ぎないから問題外だ。

 そもそも、意見というものはウットウシイものである。だれが言っても、幾つの人が言っても、そのウットウシサにはかわりはない。中でも親の意見などというものは、とことんウットウシイものである。それをウットウシイと思わないで聞くことのできる子どもなどまずいない。何度言ってもどうして彼らは聞いてくれないのだろうと教師は嘆くが、教師の意見などウットウシサの限度をとっくに越えてしまっている。教師がそれに気づかないだけの話だ。

 意見だけではない。他人の存在そのものがウットウシイものなのだ。ガラガラに空いている電車の中で、見知らぬ他人がわざわざ隣に坐ったら、誰だってウットウシイと感じるだろう。ウットウシイというのはそういうことだ。

 ああ、ウットウシイなあ、と芝生に寝ころんで、ぼくたちは何度ため息ついたことだろう。そして、自分の存在そのものが実はもっともウットウシイものだということに、そのとき、気づきはじめている。

 ウットウシイと感じるのは、自由でありたいと心の底で思っているからだ。本質的な自由にぼくたちはいつも憧れている。政治的な自由とか、表現の自由とかいう限定的な自由ではない、ほんとうの自由だ。しかしそのほんとうの自由を言葉で定義することは「絶対に」できない。だから、その自由への憧れは、いつも、ウットウシイなあ、という嘆きの形でしか表されることはないのである。