3 キリスト教の「愛」

1998.3


 毎日新聞に連載されている「新教育の森」に、キリスト教の私立学校を批判する一文があった。曰く「受験指導に力を入れるのは『愛』を説くキリスト教の精神に反しないのか。」その学校の校長は「反しない」と言い切ったそうだが、その記事を書いた記者は納得していない様子だ。(ついでに言うが、この学校は、ぼくの勤務校ではない)

 新聞をはじめ世間では、キリスト教が出てくると決まってこういう切り口になるのが不思議でならない。

 キリスト教の説く「愛」は、人間の世の中では実現が限りなく不可能に近い「過激な愛」であるという認識がまったく欠けているのだ。キリストの説く愛は「過激な愛」だから、ほとんどのぼくらの日常的な行為とは、必ず矛盾する。受験指導とキリスト教の「愛」の教えが「矛盾する」のはある意味で当然なのだ。

 すべての裁判に関わるものは、キリスト教の教えに反している。キリストは「裁くな」と教えたのだ。すべてのボランティア活動をしていることを公言する者は、キリスト教の教えに反している。キリストは「右の手でなしたことを、左手にも知られるな」と教えたのだ。すべての(あるいは99パーセントの)男は目を開いているだけでキリスト教の教えに反している。キリストは「情欲をもって女を見る者は、その目をえぐれ」と教えたのだ。

 しかし、キリスト教徒は、裁判官になり、ボランティア活動をしていると言いふらし、ほとんどの男のキリスト教徒はまだ目をえぐっていない。それなのに、あなたはキリスト教徒なのになぜ裁判で判決を出すのですかとか、あなたはキリスト教徒なのになぜボランティア活動を秘密で行わないのですかとか、あなたはキリスト教徒なのになぜまだ目をえぐらないのですかと問う者はいない。ひとり、受験指導にいそしむキリスト教主義の学校が責められる。校長が「矛盾しない」と居直るのも、それなりの正当な理由があるのである。