20 食うために生きるのか

1998.7


 川島なお美という勘違い女優がいて、自分をたいした女優だと思っているらしいが、最近ではワイン通とかになって、それをテレビなどで臆面もなく言いふらしている。「私、ワインがなければ、死んでしまう人なんです。」などと平気で言う。ワインが飲めなかったから死んだという人間がこの世に一人でもいただろうか。そんなことは、一度死んでから言え。ふざけた女だ。

 芸能人などで、例えば、九州の何とかという魚が食いたいと思うと、飛行機で出かけてしまうというようなことを言う輩がよくいる。この手の話は、芸能人に限らず、ちょっとしたお金持ちならありそうなことだ。しかし、そこまでして食わなくてはならないうまいものなど、この世にあるはずもない。うまいものというのは、偶然の賜物で、その偶然性に感謝しつついただけばいいのであって、それをわざわざ金と暇をかけて追い求めることはないのである。

 人間は、生きるために食べるのであって、食べるために生きているのではない。

 と、ここまで書いて、いや、待てよ、これは本当だろうかと、ふと疑念がよぎる。一日三食、飽きもせず、せっせと食べてまで生きなければならない人生とはいったいなんだろう。最近、二匹目もとうとう死んでしまったラットが、その最期に、老衰でもう横になっていることしかできないのに、エサ箱に首を突っ込んで、エサを食べていた。それもぜんぜんうまそうにもない、ハムスターフードをである。それを、しびれのきたような両前足にやっとのことで挟んで、パリパリと食うのである。その一時間後には、もう冷たくなっていた。では、死ぬ一時間前に、懸命に食っていたのは、何のためだったのか。

 ラットを笑うことはできない。明日死ぬかもしれないのに、我々は、やれ明石のタコはうまいの、函館のイカソーメンは最高だのといって、うつつを抜かしている。だとすれば、我々は食べるために生きているといった方が正確なのかも知れない。