19 湯豆腐の幸福

1998.7


 「今晩何を食べたい?」と家内に聞かれると、とりあえず「湯豆腐」と答える。夏だと「何いってるのよ」と取り合ってもらえないが、夏の湯豆腐というのも何だかうまそうだ。もちろん、冷房を思いっきりきかせての話だが。

 湯豆腐というのは、しみじみうまい。いや、うまいというほどの味はないので、その言葉は適当ではないかもしれない。しみじみ好きだと言ったほうがいいだろう。それなのに、家内に「あなたは、湯豆腐、湯豆腐と言うわりには、出してもあんまり食べないじゃないの」とよく言われる。実際に、どうもそうらしい。

 クラシックをよく聴いていたころ、古い宗教曲のLPの冒頭を聴いた瞬間、そのあまりの美しさに思わずレコードをとめてしまったことがある。その曲を、それ以来通して聴いたことがない。ただ、冒頭の数秒の印象だけが鮮明に印象に残っている。

 美や幸福というものに、ぼくはどうも、とことんつき合う体力というか、気力というか、そういうものに欠けているらしい。美や幸福を願いながら、その実現よりも、その喪失を怖れる気持ちがいつも勝ってしまう。幸福のまっただ中にいながら、この幸福は決していつまでも続かない。この幸福を味わえば味わうほど、あとで辛い思いをするだけだというふうに考えてしまい、その幸福から後ずさりしてしまうのだ。

 これはぼくの悪い癖のようなものだ。幸福のなかで、その幸福の喪失をあらかじめ味わってしまっては、人生を楽しく生きることはできないじゃないか。「明日は明日の風がふく。今を楽しめばそれでいい。」となぜ思えないのか、そんな自問が繰り返される。

 湯豆腐は、しかし、そうそう大量に食べるものでもない。ちょっと箸をつけて、ああ湯豆腐だ、そう味わって、ビールを飲む。その瞬間に幸福は味わいつくされ、そして去っていく。次にあるのは、「今晩何を食べたい?」という質問に、「湯豆腐」と答えることだ。その瞬間にも、かすかな幸福が通り過ぎる。味わった幸福は、食べた湯豆腐の量とは関係ないのかも知れない。