18 大相撲は「鑑賞」すべし

1998.7


 世の中には、ときどき変なことを言い出す人もいるもので、何でそんなことを言い出すのか、その真意をはかりかねることがしばしばだ。

 先日新聞の投書に、大相撲もスポーツなのだから、「枡席」で食事をしたり酒を飲んだりしながら観戦するのはおかしい、廃止すべきだ、というふうなことを言っている人がいた。

 この人の真意がさっぱり分からない。そもそも相撲がスポーツであるかどうかも議論の余地があるわけだし(ぼくはまったくスポーツだなどと思ったことはない)、スポーツというものが、飲食をしながら観るものではないなどという話も聞いたことがない。多分「枡席」が贅沢にみえて、席を平等にしろと言いたいのだろうぐらいの見当しかつかない。

 ぼくだって貧乏人だから、「枡席」で相撲を観たことなどない。しかし、テレビで相撲をみるときに、巨大な裸の男の後ろの方に、和服を着た、一見してそれと分かる色っぽい女性を見るのは、なんとも楽しいものだ。相撲はこうでなくちゃね、と思う。野球場にも、サッカー場にもそんな色っぽい和服美人は似合わない。

 最近は大相撲人気にかげりが見えて、それで、色々な刷新が提案されているわけだが、相撲ならではの風情をなくしてしまって、なにやら訳のわからない怪しげな「スポーツ」にしてしまったら、人気どころか、大相撲の存在すら危ぶまれるだろう。

 昔、初代の若乃花が、インタヴューのたびに言っていたのは、「いい相撲をとりたい」ということだけだった。決して「勝ちたい」とは言わなかった。幼いぼくは、ひたすら勝ってほしかったので、その言葉を決して理解はしなかったけれど、今思うのは、やはり「いい相撲」を観たいということだ。今の大相撲は、巨漢力士がただおしまくるだけだからつまらないという人もいる。しかし、同じ「押しまくる」のにも「芸」がある。美しい押しもあれば、つまらぬ押しもある。美しい技もあれば、醜い技もあるのだ。

 勝った、負けたで相撲をみるのではなく、一番一番じっくりと「鑑賞」したいものだ。その「鑑賞」の対象は、土俵の上だけにとどまらないのは言うまでもない。