14 オバサンも辛いのだ

1998.6


 体に障害を持つ女の子が、車椅子に乗ってお花見をしていたところ、人のよさそうなオバサンに「頑張ってね」と言われ、家で泣いたという投書が毎日新聞にのって、それに対する反響が大きいとして様々な意見が載せられていた。

 家で泣いたのは、嬉しくて泣いたのではなくて、悔しくて泣いたということなのだ。スポーツ選手ならスポーツを頑張ればいい、でも私は「何を」頑張ればいいのか。そもそも、私が車椅子に乗っていないでお花見をしていたら、そのオバサンは「頑張れ」と声をかけただろうか、と彼女は問いかける。

 頑張れという言葉はよく使われるが、また評判の悪い言葉でもある。医者に「頑張らなくていい」言われてほっとしたというような話もよく聞く。しかし、身障者であろうとなかろうと、生きていくことはそれだけでもう十分に大変なことなのだから、何かを一生懸命にやっている人や、意気阻喪している人に向かって「頑張れ」というのは、とりあえずの言葉としてはいいものだと、僕は思っている。つまり、「頑張れ」には大した意味はないのだ。他に表現のしようのない、他者への応援の気持ちを、「頑張れ」と言う言葉に託しているだけなのだ。だから言葉の意味をそのままとって「何を頑張ればいいのか?」と言われても、それは困る。

 そのオバサンは、身障者に勝手に同情して、「頑張れ」なんて声かけて、それで自分がいい人だと悦に入っているだけだという批判もできるだろう。しかし、たとえそうであったとしてもいいではないか。彼女が明るく「ありがとう、頑張ります。」と答えれば、そのオバサンだって、一時的にでも明るくいい気分を味わえるのだから。それこそ功徳というものだ。脳天気なオバサンに見えても、オバサンである以上、人に言えない苦しみの一つや二つ抱えていて、一日の大半を暗い気持ちで生きている人かも知れないのだ。人に声をかける人は、たいていは辛いことのある人なのではなかろうか。