12 ハエ切り名人

1998.5


 このごろめっきり少なくなったものに、ハエがある。少なくとも、ぼくの家ではめったにお目にかかることがない。たまに、一匹部屋に紛れ込んできたりすると、妙に懐かしい気分にさえなる。

 ぼくが学生のころは、ほんとにハエが多かった。ハエタタキをはじめ、ハエ取り紙やら、名前が分からないが、ハエをおびき寄せて閉じこめる箱状の道具やらなにしろ色々あった。特にクロバエというのだろうか、黒くてデカイ奴は、飛ぶ音からしてものすごいから、勉強中などは気が散ることはなはだしい。で、ハエタタキを持って大立ち回りになる。飛んで来る奴を、一発でたたき落とせばたいしたものだが、たいていは失敗する。すると、ハエは興奮して前にも増してものすごいスピードで部屋を狂ったように飛び回る。こうなると、もう何十分かかっても、勝負がつくまで勉強などはおあずけだ。

 ハエタタキで叩くのが、まずは常道だが、そうした道具がないときもある。ぼくはとまっているハエにそっと近づき、指ではじくのが得意だった。人差し指と親指で輪を作ってハエの正面から近づき、人差し指でパチンとはじくのだ。ほとんど百発百中だった。

 そのうち、宮本武蔵が箸で飛んでいるハエをつまんだと言う話をどこかで聞いた僕は、挑戦しようと思ったわけでもないのだろうが、庭木の葉にとまっているハエをハサミで切るということに熱中してしまった。最初は、ほんの出来心だったが、あろうことか次第に上達してしまい、ぼくに目を付けられたら、哀れハエはまず間違いないく真っ二つに切られてしまうのだった。

 ある日、庭に出てハエ切りをしていたぼくは、いつものように一匹のハエを切った。いや、切ったつもりだった。ところが、ハエは一直線に飛んでいった。しまった、しくじったか、と思う間もなく、ハエはぼくから3メートルぐらい離れた地面に垂直にポトリと落ちた。見ると、首がなかった。以後、ハエ切りはピタリとやめた。