尾瀬とオコジョと女の子


 

 尾瀬に半月もいるのだから、一度は夕焼けを見たいと思った。広い湿原の彼方に真っ赤な夕日の沈んでいく有様は、目も眩むほどに素晴らしいものであろうと思った。

 ある日、窓から首を出して空を見上げれば雲一つない上天気。今日こそ素晴らしい夕焼けを見ることができるだろうと、カメラを肩にぶらりと湿原に出た。

 山の鼻小屋付近から湿原に出るまでの100メートルほどの間は、木道の両側にクガイソウだのオニシモツケだのという細かい花をいっぱいにつけた背の高い植物が繁茂して道を狭くしている。そこを通り抜ければ広漠とした湿原が眼前に広がるのである。

 夕方も五時ごろになると、木道に登山客(むしろ観光客といった人々も多いのだが)の歩く姿もチラリホラリと見かけるにすぎなくなる。ぼくはスタスタというゴムゾウリの薄っぺらな音を背中に聞きながら木道を歩いて行った。もう少しで湿原に出るという所で、ぼくは妙な声を聞いてピタリと立ち止まった。キーッという鋭い声である。ぼくはその方向に目を凝らした。そして、木道の端に前足をかけて、首だけ木道の上に出し、キョトンとしたような目であたりの気配をうかがっている一匹の愛らしい動物を見つけたとき、嬉しさでほとんど飛び上がりそうになった。大きさは20センチ位、腹が真っ白で、あとはねずみ色に茶をまぜたような色、耳は小さく、目はグリーンピースのようにまんまるい。ぼくがちょっと動くと、目にもとまらぬ速さで木道の下に隠れてしまう。けれども、しばらくすると、さっき顔を出した所より数メートル先の所からピョコンと顔を出す。しばらくは放心したようになってそんな様子を見ていたぼくは、ふと肩に下げたカメラの事を思い出した。幸い100ミリの望遠レンズも持ってきている。ぼくは心臓の鼓動が速まるのを感じながらカメラを構えた。愛らしい獣はなかなか思うようにポーズをとってくれなかった。それでもぼくは必死でシャッターを押し続けた。

 そのうちふとぼくは向こうから重そうなキスリングザックをしょった三人の登山者が歩いてくるのに気がついた。あの連中に通られたら、この動物はどこかへ隠れてしまってもう二度と現れないだろうと思ったが、まさか「通らないで下さい」とも言えず、ぼくは情けない気持ちで登山者の通り過ぎるのを待った。彼らは情け容赦もなく木道をバネのように曲げながらミシリミシリと歩いて行った。「もうダメダ。」と思ったが、さて彼らが通り過ぎて一分もたたないうちに我が愛すべき小獣は木道の上にまたもやピョコンと顔を出したのである。ぼくはもう裸足でカメラを構えていた。

 少したつとまたしても歩いてくる者がいる。今度は若い女性の二人連れである。大学生位であろうか、格好だけは勇ましいが足取りはだいぶ乱れているようだ。それでも女二人ののんきな山旅、楽しそうに話しながらやって来る。この二人が通ったとて、我が小獣は逃げてしまわないことはもうわかっていたので、ひとつこの二人を喜ばしてやろうかと考えた。で、二人がすぐ近くまで来たとき、ぼくは口に人差し指をあてながら、

「ちょっと静かにしてこっちへ来て。今、いいものを見せてあげるから。」

と言った。見ず知らずの男にとんでもない指図をされた二人は、ちょっと困惑したように顔を見合わせたが、ぼくがどう見てもヘンなことをしそうな男だとは思えないと悟ったのであろうか、おとなしくぼくの指図に従った。(山では人々はある特殊な信頼感・親しさを感じあうのが常である。)

「何ですか?」一人が不満そうに聞く。

「ちょっと待って──。」ぼくはもしここであの愛すべき小獣が姿を見せてくれなかったらとんだ恥をかくということなど考えてもいなかった。それほどまでに彼女(あるいは彼?)を信頼していたのだ。そして彼女(この際彼女にしておく)は立派にぼくの顔を立ててくれたのである。

「ほら、あそこ。」

「え?どこ?」

「ほら、あそこにいるでしょ。」

「まあ───!」

「わぁぁぁ───!かわい───い!」

 二人が以後何度「かわい──!」を連発したかしれない。ちょっとオーバーな二人であった。

「何というの?名前は?」

「たぶん、オコジョだろうと思うんですよ。」

「オ・コ・ジョ?」

「ええ、たぶんそうだろうと思います。」

「まあ──!かわいい!ほら見てえ、あの目。」

「ほらほら二本足で立ったわよ。」

 二人はいっこうに立ち去ろうとしない。そのうち四、五人の男女のグループがやって来て、ぼくたちを見ていぶかしそうに足を止めた。

「何ですか?」

「オコジョです。」ぼくは誇らしげに答えた。

「へえ──。どこに?」

「ちょっと待って下さい。……ほらあそこ。」

「あ、ほんとだ。おい見ろよ。」

「あら、かわいい。イタチみたいだわね。」

「へえ──。オコジョね。こんなものもいるんだなあ。さあ、いこうや。」

 何のことはない、こっちのパーティーはあっさり引きあげていってしまった。あんまりオーバーなのもどうかと思うが、またこんなに摩滅した感受性しか持っていないのも考えものである。さっきの二人はまだ見ている。ぼくは間が悪くなってきたから彼女らに別れを告げて湿原へ出た。

「どうもありがとうございました。」

 二人は嬉しそうに礼を言った。湿原へ出てからしばらくして振り返ってみると、二人はまだそこにしゃがんだまま我が最愛の小獣オコジョに見入っていた。

 その日の夕焼けは、あんまりきれいではなかった。だれもいない湿原の真ん中の木道に寝そべって、ぼくはさっきの二人は今頃やっきになってオコジョを生け捕りにしようとしているんじゃなかろうかなどと考えて、ひとりでおかしがっていた。

(1969)


ぼくは1968年の夏、アルバイトで、尾瀬自然保護センターに半月滞在して、荒れた湿原の修復や、湿原の監視などの様々な活動をしていました。これは、そのときの小さな思い出です。