94 楽しい勉強

2016.8.18


 このところずっと伊藤整の『日本文壇史』(全18巻)を読んでいる。講談社学術文庫版を数年前に「自炊」したのをiPadで読んでいるのである。一日に50ページほどを読むのだが、たいていは、朝目覚めてからベッドの中で読んでいる。寝ぼけていると、ときどきiPadが顔の上に落ちてくるので怖いが、いまのところ怪我をするには至っていない。

 この『日本文壇史』は、単行本が栄光学園の図書館にあるのを見て以来、何十年もの間、いつか読みたいと思いつつ、こんな晩年になってようやく読むことになったわけだが、今更ながら「遅きに失した」感が否めない。もし、もっと若い頃に読んでいたら、授業で文学史を扱うときに、もっとずっとおもしろい説明ができたのにと思うからだ。おもしろいどころではない。もっと正確に説明することができたはずだ。

 例えば、明治文学史のひとつのトピックたる「言文一致」だが、ぼくの授業では、せいぜい二葉亭四迷やら山田美妙やらが実験的に試みたんだけど、なかなかうまくいかなかったんだよねえ、ぐらいで終わってしまっていた。ところが実際にはそんな薄っぺらなものではなく、口語体の文章は、もっともっと広範な動きの中で、紆余曲折を経て徐々に浸透し、完成していったのだということが、『日本文壇史』を読むと手にとるようにわかる。分かったところで、そんな事情を文学史の授業でえんえんとしゃべれるものではないから、むしろ知らなかったほうがよかったのかもしれない、なんて無責任で不埒なことを考える老人でぼくはあるわけだが、それにしても、この本を読んでいて(今、第7巻を読んでいるところ。尾崎紅葉が死んだ明治36年あたりだ。)とにかく驚くのは、明治の文学を作り出した文学者たちの異様なまでの若さだ。

 ぼくがかつての高校での文学史の授業で名前を知った文学者は、ほとんどみな20代で大活躍なのだ。尾崎紅葉なんか、硯友社の親分として文壇に君臨し、紅葉に可愛がられるか嫌われるかで、大きく文学者として生きる道が左右されてしまうというほどの大物だが、その紅葉が次第に衰え、時代は新たな展開を迎えるなんて頃、紅葉は30代なのだ。そして、多くの弟子に囲まれて、死んだ時、紅葉は満35歳なのだ。そんなことは、紅葉がいつ生まれいつ死んだかということが文学史の本に書いてあるのだから、「知らなかった」はないのだが、何となく、紅葉がたった35歳で死んだとは思えないでいたということだろう。明治という時代も若いが、人間も若かったのだと、毎朝感嘆しきりである。

 日本の近代文学は、明治30年代になって始まるというのが、どうやら定説のようだなんていうもの、今までの不勉強をさらけ出すような情けない言いぐさだが、今まで不勉強だったぶん、今の「勉強」が楽しくて仕方がない。

 57歳の秋、突然書道を習い始めて、その翌年、栄光学園での「研修制度」を初めて使うことにして(それまで、海外研修やら国内研修やら、とにかく研修というものが嫌で一切その権利を行使しなかったのだ。)、副校長に、書道教室に通う費用を「研修」として認めて出してほしいと申請したところ、当時の副校長はオチャメな人だったから「山本先生、研修というのは、生徒に還元できないとこまるんですよ。」と言ってニッコリ笑った。58歳で書道の研修をして、60歳で定年なら生徒に還元しようがないじゃないかという冗談である。(筋としては、冗談ではない。)もちろん、その申請はめでたく承認されて、書道教室の月謝1年分を支給されたわけだが、確かに、その「成果」はほとんど生徒に還元されはしなかった。(少しは、したのである。)

 まあ、研修ともなれば、そして学校がその費用を負担するとなれば、学校としてはそれなりの「見返り」を求めるのは当然のことだが、しかし、何かを「学ぶ」ということは、本当はなんの見返りも求められない、純粋な喜びであるはずで、自分で学んだことをどこへ還元しようもない退職後の「学び」は、楽しければそれでいいわけである。

 教師をしている頃は、これを勉強しなければ、生徒にちゃんと教えられないなんて義務感から学ぶこともあるにはあったが(あまり多くはなかったが、という意味です)、そういう義務感のないところに、ほんとうの楽しみはある。生徒だって、試験に出ると思うから勉強が嫌なのであって、試験さえなければ、きっと勉強は楽しくなるはずだ。といって、彼らが定年になるのを待つわけにもいかないし。困ったものだ。

 


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