83 写真の楽しみ(1)「調整」について

2016.5.3

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 先日金沢文庫へ行った折、隣接する称名寺の境内で、野草の写真をうずくまって撮っていたら、初老の男性が近づいてきて、何を撮ってるんですかと聞いてきたので、この草を撮っているんですよ、最近のデジカメはモニターが傾くので、草を横から撮れるので面白いですね、なんて話しているうち、その人も、写真好きと見えて、いろいろな話をした。その中で、やはりデジカメになって写真も楽しくなりましたね、特に、RAWで撮って、パソコンで現像するのは楽しいですよね、といったら、「ああ」と残念そうな返事をした。ああ、この人もやっぱりかと思って、ちょっとガッカリした。

 この前、ネットで、自然の写真などを撮ってアップしているひとのブログなどを見ていたら、「この写真は、調整してません。自然のままです!」と得意そうに書いている人がいた。こういう記事を読むと、やっぱりガッカリする。

 写真は、誤解されている。

 「写真」つまり「真を写す」という名前がいけないのかもしれないけれど、写真は、「ありのままの」「自然のままの」画像だと思い込んでいる人が多いのである。さらにデジカメの時代になって、気軽にカラー写真を撮れるようになったのはいいのだが、カメラで撮って、それに一切手を加えない写真がいいのだと思い込んでいる人も多いような気がする。

 ぼくは、写真の専門家ではないが、「写真歴」だけは長い。初めてカメラを買ってもらったのは小学2年ぐらいだったから、もう半世紀以上写真をとり続けてきたことになる。だから多少の知識と経験はある。そんなわけで、昨今の写真をめぐる言説に、ときどきいらつくので、ここらあたりで、まとめて言いたいことを言っておきたいと思う。ただ、えんえんと長くなるのもナンだから、何回かに分けて書くことにしたい。

 まず、「調整してません。だから自然のまんまです。」ということの誤りについて。

 ここでまず問題なのは「自然のまんま」って何かということである。目の前の丘の木々が若葉に萌えているとして、その美しさを「見たまま」に表現したということなのだろうが、眼前にある景色と、写真に撮った景色が、あまりに違うことにガッカリしたことのない人はいないだろう。とくに若葉の色などは微妙な緑の差異が、ほとんど信じられないほどの美しさを持っているのだから、それを写真に「正確に写し取る」ことなどそもそも不可能なのだ。しかも、自然は「奥行き」を持っている。つまり3D映像なのだ。4Kとか8Kとか言ってるけど、そんなもの目じゃないのだ。しかも、左右も天地もほとんど無限といっていいくらい広がっている。それをたかだか数十センチの画面に定着しようってんだから、無理すぎるわけだ。だから、自然の景色を(町の景色だっていいが)、「自然のまんま」写真に撮るなんてことは絶望的に無理な話なのであって、写真というものは、この「絶望」から出発するのだ。

 なんてご託を並べていると、キリがないので、先へ行くが、問題の「調整」だ。

 この人が言っている「調整」っていうのは、パソコン(今ではスマホでもできるが)で、コントラストや、ホワイトバランスや、明るさや、色味などを「調整」することを指しているのだろう。つまり、デジカメで撮った写真を、なにも手を加えずにブログに載せています、ということなのだと思う。件の称名寺で出会ったオッサンも、パソコンでの「調整」は「邪道」だとどこかで吹き込まれたに違いない。そんなことを言う写真の「指導者」はいくらでもいそうである。

 しかし、彼らの根本的な誤りは、「デジカメで撮った」時点で、すでに「調整」されているということを忘れている(あるいは知らない)というところにある。詳しい人には何を今更というような簡単な話だが、デジカメでは、レンズから入ってきた光を感受して画像を作るわけだが、その時点で、なんらかの「調整」をしているのである。カメラのメニューによくある様々な撮影メニュー(風景とか、人物とか、ソフトとか、ビビッドとか)がそれだ。そこを何にもいじらなければ、「標準」ということになるが、それだって、「標準的な画質調整」をしているわけである。

 カメラにそういう調整を任せないで、入ってきた光の情報をそのまま記録するのがRAWと呼ばれる撮影モードで、これは、特別なパソコンのソフトを使わないと画像にならない。そのソフトを使って画像にすることを「現像」という。(知ったかぶりをして、いい気になって説明してますが、それほど正確な記述ではありません。悪しからず。)この「現像」作業では、さまざまな「調整」が可能になる。露出オーバーで白っぽくなっていても、それを適性な露出にすることもできるし、全体に赤みが強くなってしまっている画像を「自然」な色味にすることもできる。実際の風景よりも、コントラストを強くしてより印象的な画像にすることもできる。これをみな手動でやることができるのである。(自動モードもあります。)

 これを「人工的だ」といって嫌がる人もいるわけである。そんなに手を加えずに「自然」でいいじゃないか、というわけだ。

 しかし、もともと写真というものは、極めて「人工的」なものなのだ。メンドクサイからくどくど言わないが、写真の初期のころは、もちろん白黒写真だったわけで、これほど「人工的」あるいは「反自然的」なものはない。その白黒写真は、フィルムで撮ったのだが、どのフィルムで撮るかによって画像はまるで違ったものになる。コントラストの強い(硬調)というフィルムを使えば、白黒の差が強いクッキリした写真になるし、その反対の軟調のフィルムを使えば、やわらかい写真になる。しかも、そのフィルムの現像段階でも、現像液の温度とか、現像液に浸けておく時間とかによって、画質に差が出る。そうやって現像したフィルムを今度は「印画紙」に「焼き付ける」わけだが、その焼き付け作業によっても、無限に画質が変化するわけである。

 つまり、写真というのは、その当初から「撮ったままの自然」などとはほど遠い、極めて「人工的」なモノだったのだ。

 ぼくは高校生のころに、この白黒写真の現像や焼き付け作業に熱中した時期があって、ほんとに楽しい思いをした。そのころ、丁度カラー写真も普及してきたころだったが、これは自分でそういう作業をすることができず、写真屋任せにするしかなかった。こっちで出来るのは、フィルム選びぐらいのもので、自分の好みのカラー画像など、夢のまた夢だった。

 それが、デジカメの登場によって可能になった。これはぼくにとっては文字通り「夢のような」ことだったわけだ。デジカメも当初は、画素も少なく、プリンターで印刷しても粒子がモロ見えというシロモノだったが、それでもぼくは感動したものだ。
それから20年も経たないうちに、「RAW現像」など当たり前になってしまったが、それでも、白黒時代の「現像作業」の心躍るような楽しさを思い出しながらの至福の時間となっているわけなのだ。

 結論は、もう、言わずもがなだろう。「RAW現像」など面倒だといって、jpegで撮るのはちっともかまわないことだが、自分の気に入るように画質を「調整」することに何の「罪の意識」を感じる必要はないということ。変な「とらわれ」からは一日も早く解放された方が、人生も趣味も楽しいはずである。

 


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