81 細切れの時間

2016.4.17

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 長いこと教師をやってきたからだろうか、時間を細切れにする習性が身についてしまっているようだ。

 教師の場合、授業を中心に一日の仕事が展開するわけだから、50分とか45分とかが一単位となる。学校によっては90分なんて恐ろしげな授業もあるようだが、中高生の場合、普通の講義形式の授業なら50分でも長いくらいだ。彼らの集中力が持続するのはせいぜい20分。長くても30分だ。だから、というわけでもないが、現役の頃は、ぼくはひたすら古典的な講義式の授業をやっていたから、ほんとの中身はせいぜい20分ぐらいで、あとの30分ぐらいは「雑談」というようなことが多かった。いつも、全部、というわけじゃないが、生徒にとってみれば、そういう授業ばかりが印象に残るから、あの人はまともな授業をしないと思っていただろうと思う。それはおおむね正しい。

 今では、アクティブラーニングとかがトレンドで、ただ教師が教壇で雑談混じりにしゃべっていればいいという時代ではないらしく、その点でも、いい時に退職になったものだ。ぼくは、アクティブラーニングなどというメンドクサイ授業は金輪際やりたくない。だから、今ではもう、「使い物にならない教師」であり、「昭和な教師」であろう。

 とにかく、50分の授業を4コマやって、その日の仕事とするという日々が42年も続けば、日常の生活においても、あ、3時から4時まではアレをやって、5時から6時まではアレをやろう、なんて自然に思ってしまうわけで、これを称して「細切れの時間」の使い方といっているわけである。

 この「細切れの時間」の使い方は、一概に悪いとも言えなくて、ぼくが去年から始めた「海外長編小説読破計画」などは、こうした時間の使い方を徹底することで、順調に進行しているのである。一日に30分とか、15分とか、とにかくわずかな時間を、読書に当てること、そしてそれを決して一日もサボらないこと、これを実行すると、どんなに長い小説でも最後まで読み切ることができる。なんて力まないでも、当然すぎることである。

 この「細切れにする」ということは、別の言い方をすると「分割する」ということで、これは、井上ひさしの短編小説「指」に出てくるイエズス会のルロイ神父の教え「困難は分割せよ」に見られるように、イエズス会的現実主義を象徴するような言葉である。イエズス会は、ドストエフスキーが目の敵にしてその小説で批判している修道会で、どうしてそこまで嫌われるのか、いまいちきちんと理解できてないのだが、少なくともカトリックの合理主義的な傾向を極端に推し進めた思想としてイエズス会をとらえているのではないかと思う。まあ、これは今後の面白い「研究課題」となりそうなのだが、それはそれとして、このルロイ神父の教えは、現実を生きていく上で非常に有効である。

 たとえば、目の前に1トンもある大きな岩があるとする。これを、1人でしかも自力でそこからどかせと言われたらどうするか。押しても動きっこない。重機を使うこともできない。無理だ、と誰でも思うだろう。けれども、出来るのである。それは、ハンマーなり、シャベルなりで、その岩を少しずつ砕いていけばいい。(砕けないほど固かったらダメだけど。)一日に1キログラムでも、砕いて「小さい岩」にできれば、後は何日もかけてそれを続けていけば、いつかはなくなることは確実なのだ。

 「分割する」ということが「デジタル化」するということだ。つまり、現代の世の中は、この意味での「細分化=デジタル化」によって出来上がっているわけで、そのおおもとを辿ると、ひょっとするとイエズス会に辿り着くのかもしれない。

 栄光学園はイエズス会の学校だ。ぼくらが在学したころは、イエズス会士がごまんといて、イエズス会士から多大な影響を受けた。グスタフ・フォスというドイツ人神父の校長が、毎日のように「やるべきことを、やるべきときに、しっかりやれ」と檄をとばした。これもよく考えてみれば「細分化」である。のっぺらぼうのような日常から「やるべきこと」を「切り分けて=分割して」、のっぺらぼうのようにダラダラ流れる時間から「やるべきとき」を「切り分ける=分割する」。そして、その分割された時間に自分の全力を注ぐ、というわけなのだから。

 そう考えてくると、ぼくが時間を「細切れ」にしてしまうのは、教師をやってきたという以前に、イエズス会士の薫陶の結果だと言ったほうがいいのかもしれないと思えてくる。

 その「薫陶の結果」は、現役のときには有効だったかもしれないが、こうして退職してたいした仕事もなくなり、時間をどう使おうと自由になった身には、下手をすると有害ともなりかねない。自由な時間は、のっぺらぼうに悠々と流れ、切れ目もなく続く、アナログ的な時間のはずである。朝、定時に起きなくていいのなら、朝や夜で日々を区切らなくてもいいはずである。滔々と流れる大河のような時間の中で、ゆっくりと息をして、ゆったりと食事して、ゆったりと書画をかけばいいはずである。

 それなのに、今日は、午前中は、書を1時間書いて、その後水墨画を1時間描いて、午後からは花の写真を撮って、夜は、友だちと飲みに行ってというように、一見充実しているかにみえる時間の使い方をしているのが昨今のぼくである。けれども、これは充実と「見える」だけで、実は、どこか間違っているのではないかと近ごろでは疑っている。

 いろいろやるのは、それはそれでいいのだが、どこか心に余裕がない。それは、「悠久の時間」に身を浸すことを忘れているからだ。自分が「やるべきこと」だと思っていること、自分が「やるべきとき」だと思っていること、そして「しっかりやらなきゃ」と思っていること、それらがみんな実は「どうでもいいこと」に思えるような、そんな「悠久の時間」あるいは「永遠」を、いつも目の前に意識しなければダメなんじゃないか。

 などと、思うのだが、実は、そのへんのこともよく分からない。分からないままに、時間だけは、流れていく。

 


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