53 「子どもへのまなざし」あるいは「子どもからのまなざし」

2015.9.15

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 この前の土曜日、コンサートに行ってきた。『内藤晃リサイタル&おんがくしつトリオmini live』、場所は代官山にある日本基督教団代官山教会。代官山といえば、泣く子も黙るオシャレな街、というテレビ情報だけはいやというほど聞いてはいるが、実はぼくも同行の家内も行ったことのないところ。

 その街の教会で、内藤晃とその仲間『おんがくしつトリオ』のコンサートだ。しかも、前半は、内藤晃によるショパンのプレリュード全曲演奏という、スゴすぎるプログラム。しかも、後半は、最近知名度が上がってきて、いずれ大ブレークするに違いないとぼくが信じてやまない『おんがくしつトリオ』の演奏である。こんなコンサートはまたとないとばかり、ぼくは何ヶ月も前から内藤君(教え子なのでついこう呼んでしまう。許してね。)からチケットを買っていたのである。

 ショパンの演奏はもう、素晴らしいの一言だった。日ごろ演歌ばかり聞いたり歌ったりしていて、クラシックはどうもいまいち分かんないというぼくでも、もう、このまま何時間でもこの音楽の中に浸っていたいと思わせるような素晴らしさ。(ああ、「素晴らしい」という言葉しか出てこないのがもどかしい。)

 クラシックはどうもいまいち分かんない、なんて言ったが、それは、都立高校勤務時代に、音楽部の女子生徒に、「オレはベートーベンのピアノソナタなんか好きだけどさあ、誰が弾いても同じにしか聞こえないんだよね。」って言ったら、心底あきれ顔で「そんな! バカじゃないのっ!」って吐き捨てるように言われてしまったことがショックで、いまだにそれを引きずっているわけだけど、実は、大学生のころから、ずっと聴いては来ているのである。だからまったくの門外漢というわけではない。女子生徒から「馬鹿じゃないのっ!」って罵られれるほどのバカではないのだが、今でもやっぱり、同じ曲を別の演奏家が弾いているのを聴いて、グールドならすぐ分かるが、それ以外は、あ、アルゲリッチだ、あ、リヒテルだ、あ、シフだ(古いか)、なんて言えないことは確かだ。つまり、まったく分からないわけではないけれど、演歌ほど、奥の奥まで分かるというわけにはいかないということである。

 ショパンのプレリュードについて言えば、その昔、まだ若かった頃のポリーニが全曲演奏を聴いて、それこそ震えるような感動を覚えたことだってあるのである。(急にいばるな、って声が聞こえそうだが。)まあ、しかし、それ以上でもそれ以下でもないクラシック半可通のぼくでも、内藤晃の演奏には、心底こころが震えたのであった。ほんとにいいピアニストだ。演奏中の豊かな表情やしぐさを見ていると、栄光学園に在学中、ブラスバンドの指揮者をしていたときのダイナミックに跳んだりはねたりする姿と重なり、音楽をする喜びをもうあの時から全身で表現していたんだなあと深い感慨にも浸ったのだった。

 20分の休憩をはさんで、後半は、まったく趣向の違う『おんがくしつトリオ』だ。ピアノ(内藤晃)、リコーダー(中村栄宏)、鍵盤ハーモニカ(菅谷詩織)の3人のグループだが、演奏を聴くのはぼくは2度目。家内は内藤晃のピアノも含めて初めて。これが、もう、ほんとに素晴らしい。(また、素晴らしいしか出てこない。)さだまさし作曲の『秋桜』が演奏されたときは、さだファンの家内などはもう大喜びだった。

 コンサートの解説パンフレットで、内藤君は、バーンスタインの『ヤング・ピープルズ・コンサート』に触れ、「番組で時折映る客席の子どもたちのキラキラした笑顔がまぶしくて、こんなことをやってみたい、という憧れをずっと抱いてきました。」と書いている。(下にパンフレットの画像があります。)こんなに天才的なピアニストである内藤君が、こういう「子どもへのまなざし」を持っていたことに感動した。それと同時になぜかとても嬉しかった。

 現役のオシマイの方で、中1を教えたとき、柳家ろべえさんを呼んで落語会を開いたことがあるが、その時の生徒たちの底抜けの笑顔が思い出された。そうだ、子どもの笑顔こそ、何者にもかえがたい大切なものなんだ、そう思った。たぶん、「子ども」は、すべての芸術の原点なのだ。

 そして、その翌日、ぼくは、木原光威先生の主宰する『洗心書院展』を見るために、新潟の三条へと向かったのだった。敬愛する木原先生の最初の社中展だ。何としても行きたいとは思っていたが、それでもずいぶん迷った。体力が持つかどうか心配でもあったし、新幹線で新潟まで行って、書展だけみて帰ってくるということが、交通費の上から考えるとたいそう贅沢なことにも思えたのだ。

 そんなとき、もう何十年も前に、教え子の親が、自分の好きな人の個展があったので、京都まで日帰りで息子と一緒に行ってきましたと言うのを聞いて、世の中にはこんな贅沢なことを平気でする人がいるものだと感嘆し、かつ羨望したことを思い出した。そうだ、今こそ、大人買い、じゃなくて、大人旅だ。最高の贅沢をしようじゃないか。あんな大きな手術をして、生きながらえたんだ。何でも、やれるうちにやっておこう。(手術後のぼくの思考回路はいつもこういう思いによって動いているみたいだ。)贅沢だっていい。それに、「大人の休日クラブ」とかで交通費も3割引きだし、なんてケチな思いにも後押しされて、勇んで出かけたのである。

 そこでぼくが見たものは、もちろん、木原先生はじめ、門下の方々の素晴らしい作品の数々だったけれど、とりわけ目を引いたのは、子どもたち(小学生から高校生まで)の合作作品だった。最近人気の歌の歌詞を、壁一面の紙に合作して書いている。その力強さ、自由さに圧倒された。

 書道教室には、もちろん様々な年齢層の人が集まる。しかし、昨今の高齢者社会では、どうしても高齢者中心の集まりになってしまう。社中展なども、当然のように高齢者ばかり、とは言わないまでも、どうしても「大人の世界」として閉じられてしまいがちである。

 けれどもここでは、同じ部屋に大人と子どもの書が対等に展示され、お互いが響きあっている。大きな紙のむこうに子どもたちがワイワイ言いながら、笑顔で書いている様が目に浮かぶ。ここにもまた「子どもへのまなざし」があった。いやもっと正確に言えば「子どもからのまなざし」だったのかもしれない。

 家に帰ってから木原先生にメールを書いた。その中にこんな感想を書いた。

 あのような書展は見たことがありません。子どもの作品が、同列に並んでいたことがとても印象的でした。横浜や東京で行われている書展は、どんなに独自な雰囲気をもっていてもやはり「大人」の世界に閉じこもっているという点では同じですね。それが、今回の書展では「子ども」が入っていることで、無限に未来にむかっての「広がり」が実感として感じられました。それがすごく貴重なことに思えました。「子ども」の世界は、「大人」への準備期間ではなく、それ自体が独自なもので、たえず「大人の世界」へ問いかけているんだと初めて気づかされたような気がします。


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