16 生きたいという希望

2015.1.11


 プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいると、随所にハッとさせらるような箴言めいた言葉に出くわす。それがまたこの小説のたまらない魅力となっている。

 十数回目の「挑戦」で、ちくま文庫でいえば、2冊目を昨日読み終えたところである。毎日欠かさず10ページとか20ページとか読んでいくのだが──そのほとんどが、コタツに入って横になり、iPadを手で支えてよむという何とも自堕落な読み方であるのだが──数ページも読まないうちに睡魔に襲われて手に持ったiPadがコタツ布団のうえにパタンと落ちたりすることもしばしばでありながら、上流階級の女性や男性のどうでもいいような退屈な会話の直後に、突然のように人生の隅々までを照らしてくれるような言葉があらわれたり、今まで読んだこともないような、美しい自然描写が数ページにわたって展開されたり、という、実に不思議な、また尽きない魅力をたたえた作品であることを痛感しているのである。

 たとえば、先日「ぼくの切抜帖13」に抜粋した部分。

彼女は車輌に沿って歩きながら、目をさました数人の乗客にミルク・コーヒーをさしだした。その顔は朝日にぱっと映え、空よりもばら色であった。私はその娘をまえにして、われわれが美と幸福との意識をあらたにするたびに心によみがえるあの生きたいという希望をふたたび感じた。

 山あいの停車場で、出会ったミルク売りの娘を見て、語り手は、「生きたいという希望」を感じたというのだ。その原因が「美と幸福との意識をあらたにする」ことだという。つまり、ぼくらが「生きたい」と切実に思うのは、「美と幸福」を感じたときだ、ということなのだ。

 これは別にこと新しいことではない。新しいことではないけれど、そうなのか、と深く考えさせられる。

 ぼくらは毎日の生活のなかで、「生きたい!」と痛切に思いながら生きているわけではない。ぼくぐらいの年齢にもなれば、メンドクサイなあ人生はと思わない日とてない。もちろん、だからといって、毎日辛くてたまらないというわけでもないのだが、細々した心配事や、先々の不安や、その他モロモロをヒマにまかせてツラツラ考えれば、兼好法師ならずとも「ものぐるほしい」気分にもなるわけである。

 でも、そうした退屈な日常で、ふとしたときに出会う「美」、ふとしたことで感じる「幸福」が、瞬間的に「生きたい!」と思わせる、ということはしばしば体験してきたことだ。それは人がよく口にする「ああ、生きていてよかった。」という現状肯定的な感情とは微妙に違っていて、もっと前向きな、ぼくらの感情の底に訴えかけてきて、日々の生活の根底にある意識──まるで大型客船の底部に眠っているように存在し、乗客がほとんど誰もその存在を意識していない機関室のエンジンのような──に力を与える、そんな感じというべきだろう。

 「美」は、そういう力を持っているのだとしたら、すべての芸術は、そういう意味での「美」の追究から生まれてきたはずだし、またそういう芸術だけが本物の芸術だといってもいいだろう。まさに、「失われた時を求めて」を読み進める中で、なんど「生きたい」という思いにかられたかというそのこと、それがこのことの真実を証明しているように思われる。

 書もまたその例外ではない。書に縁のない人──ぼくもたった8年前まではそのひとりだったわけだが──は、書作品を見て、「何が書いてあるのか分からない」「読めない」「読めるけど意味が分からない」といった感想が頭の中に渦巻いてしまって、「書の美」に行きつかない。

 それならお前は「書の美」が分かるのかと聞かれれば、返す言葉がないが、プルーストの言葉に支えられてかろうじて今言えるのは、その書を見た瞬間「生きたい」という「希望」を感じられれば、それが「書の美」だということだ。書の場合は、書かれている文や文字の「意味」からその希望を感じることもあるが、それ以上に、作品全体から感覚的に受ける印象によって、「生きたいという希望」がぼくらの心の奥底に生まれる、それこそが「書の美」の存在を証明する。

 「TOKYO書2015」に出品された現日会の鈴木鵬舟先生の大作「風神」を見たとき、ぼくは、「生きたい」と思った。「生きたいという希望」を感じた。このことだけを言いたかった。


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