懐かしい絵


 

 先日久しぶりに美術全集で、ユトリロの絵を見てひどく懐かしい思いがした。

 ユトリロは、最近どうも人気がないようだが、ぼくが高校生の頃は結構人気があって、色々な所で展覧会が行われていた。たしか高校3年のころ、銀座のデパートで大きな展覧会があって、ぼくはそれを見にでかけ、そのものすごい混雑した会場で、始めて腰痛というものを経験した。人の波に押されて、それでも何とか一番前で絵を見ようと必死になっていたら、一枚見るのに5分以上もかかるようなのろのろした歩みで、そのうち立っていれないほど腰が痛くなった。それでも、絵の前にはりめぐらされた手すりに体をもたせかけて見続けた。今から考えるとたいした情熱である。そしてその腰痛は今に至るまでぼくを悩ませている。

 それはそれとして、久しぶりに見たユトリロの絵に感じた「懐かしさ」とういうものは、一体何なのだろうか。もちろん、昔見た絵だから懐かしいには違いない。しかし、その懐かしさというのは、もっと心の奥深くに刻み込まれているように思えるのだ。いや、どうも「刻み込まれている」というのでは、感じがでない。むしろ「張りついている」と言った方がいいかもしれない。

 絵が心の中に「張りついている」。しかし、その絵を「覚えている」というのとは違う。そうではなくて、一枚の絵に何か自分の一部がすでに流れ込み、埋め込まれていて、その絵を再び見たときに、その絵からその「流れ込み」「埋め込まれた」ものが、自分の中に返ってくるような感じと言ったらいいのだろうか。だから、それはユトリロの絵であって、ユトリロの絵ではない。ぼくの過去の感情や情緒によって変容してしまった絵だ。先日見たユトリロの絵から、ユトリロの心が感じとられなかったわけではないが、しかし、その心は純粋なユトリロ自身の心ではなかったろう。

 そんな風に考えて見ると、芸術作品というものは、はたして「純粋」な形で存在することが可能だろうかという疑問が生ずる。芸術作品が、「理解されるもの」ではなくて、「感じ取れられるもの」であるとすれば、「感じ取られた」作品の姿は、「感じる心」の多様性に従って多様であろう。とすれば、すべての芸術作品は、作者の手を離れたとたんに無限に変容していく運命にあることになる。そしてそこにこそ、ぼくたちが芸術を受容する意味がある。

 絵を見た瞬間、人はそこから何かを感じとる。人は感じたままに、その「感じた絵」を心に張りつける。絵はすでにそこで変容している。絵は見た人のものとなる。

 思えば、人間の心の中にはそのようにして張りつけられた無数の絵が存在している。いや、存在しているというような有りようではなく、むしろ、そういう絵が心の実体だと言ったほうがいいのかもしれない。そしてもちろんそれは絵に限らない。小説も、詩も、音楽も、映画も、みなその絵のようにして変容して心に張りつき、ぼくたちの心を形成しているのだ。

 ユトリロの絵は、感傷的で、それほど偉大な芸術とは思えない。ぼくも、今、ユトリロの絵にそれほど大きな感銘は受けない。しかし、そういう次元を超えたところで、たしかにその絵がぼくの心に張りついていて、その絵を見るたびに心がゆれる。それは、むかし夢中で歌った歌を聞いたときのように、ただひたすらに懐かしい。その懐かしさが、ぼくの心のありかを教えてくれる。

(1998年)