利己的な生き方


 

  先日私の勤務校で、ネパールとの関わりの深いある方の講演があった。その方(A氏としておこう)は、長く学校の先生をしていたが、今は退職されてネパール支援のための活動を積極的になさっているという。

 A氏の話はとても説得力があって、生徒も多くは熱心に聞いているようであった。何しろA氏が語るネパールの人々の暮らしというのは、想像を絶するくらいに貧しいものなのだ。ネパールの人の食事は、メニューなど何も考えることはない。二種類しかないからだ。それもほぼ同じメニューなのだが、肉が入っているのと入っていないのと、その二種類。水にしても、例えば、おとししだったか、日本でも深刻な水不足があって、四国などでは一日に水が2時間しかでないなどと言って大騒ぎをしていたが、ネパールからみれば、一日に2時間も水が出るなんてなんと羨ましいことか、何も大騒ぎすることではないのだ、というような話だった。レストランでの高級な食事、そしてそこから出る膨大な残飯。車の多さ、等々。そういう世界のあり方を変えていかなければ、世界はやがて滅びてしまうだろう、そうならないためにこそ君たちは勉強するのだ、という熱っぽい話だった。

 その話を聞きながら、しかし、ぼくはどうも居心地の悪い思いも味わっていた。確かに、A氏の言うことは正しいのだろう。地球上には、豊かな暮らしを享受するごく一握りの人々と、その何十倍もの飢えた人々がいる。それは正しい。しかし、その認識からどういう行動が生まれてくるかは、そんなに簡単な問題ではない。

 ひとむかし前だったら、そういう話を聞いて「ああ、日本人でよかった」というぐらいが標準的な感想だったろう。それでは、あんまり冷淡だというで、「今の自分の生活の豊かさに感謝しよう。せめてものを大切にしよう。」などという感想を言わざるを得なくなった。しかし、今では、「では、我々の生活を見直し、その水準を低くしよう。」と言わなければおさまりがつかなくなっている。もう十年以上前だったと思うが、井上ひさしがそういうことを言っていたように記憶している。

 できることは一つ、「生活水準を低くすること」以外にないのだ。アジア、アフリカの人々の生活を欧米・日本並に引き上げれば、環境破壊・地球温暖化に拍車をかけるだけのことは子供にもわかる。だとすれば、われわれの生活水準を下げることしかない。しかし、それができない。なぜなら、我々は、根本的に利己的な存在だからだ。地球の反対側に飢えて死にそうな人がいるからといって、今日の夕食を抜くことはできない。牛肉をやめて鶏肉にすることすらできない。それは、「そんなことをしても、その飢えた人を救うことにはならないからだ」というもっともらしい理屈からではなく、「うまいものがあれば、それを食いたい」というのが人間だからだ。

 山一證券が自主廃業になって、解雇された人たちに対して、様々な企業から求人があるというニュースに接したある主婦は、「ああ、やっぱり。大企業だからそうなんだ。だから、お受験に拍車がかかるのだ。中小企業の人間には考えられない話だ。」というまことに率直な感想を新聞に投書していた。その主婦が夢想する社会は、おそらくすべての人間がまったく同じ生活水準を維持できる、共産主義的な社会であろう。しかし、そうした社会はすでに破綻した。すべての人間が同じに扱われる社会など、現実には存在しない。存在しない社会を想定して、それを基準にものを考えるのは愚かであろう。結局主婦の感想は、「ひがみ・やっかみ」以外の何ものでもないことになる。そういう主婦は、自分が大企業の女房で、その亭主が解雇されたとき中小企業なみに再就職の口がなかったら、そのことを喜ぶだろうか。「ああ、いい大学出た主人と結婚してよかった。」と思うことはほぼ確実である。つまり、人間は悲しいことだが、そのように利己的に作られているということだ。

 しかし多くの人はそれを認めたがならない。善人だと自分で思いこんでいる人ほど認めたがらない。アメリカで特に盛んと思われるチャリティーパーティーとかチャリティーコンサートとかいうイベントは、利己的な自分を認めたくない人には絶好のチャンスとなる。華やかに着飾って、アフリカ難民のチャリティーコンサートに出かけるということの滑稽さにすら気づいていない。もちろん、その手のものは、ないよりはあった方がいい。現実にそこで金が生まれ、何人かあるいは何万人かの人の命が助かるのだから、あったほうがいいことは確かなのである。しかし、飢えた人を救うという名目のおかげで、思い切り派手な衣装に身を包み、とびっきりの料理に舌鼓をうつことに何のためらいも感じないですむならば、善人にとってこれほど願ったりかなったりの場はないわけである。

 毎日、贅沢三昧の食事をして、やれ、ゴルフだ、やれスキーだといって遊びまくり、それでも何のやましさも感じない人間の方が実際には多いのだから、チャリティーに参加するだけでも見上げたものだというのが正しい見方なのだとは思うが、いずれにしても、五十歩百歩ではないかという気持ちがぬぐいきれない。

 毒殺される直前のソクラテスがフルートの練習しているのをみて、「それがなんになるのですか」と聞いた者に、ソクラテスは「自分は死ぬ直前までこれを習いたいのだ」といったという話を正月の新聞で読んだが、ソクラテスのそのような生き方も、ずいぶん利己的だ。しかし、善なる行いを天国に行くために行うキリスト教徒もまた利己的である。聖戦を信じて命を落とすイスラム教徒も、利己的なのだ。

 利己的に作られた人間は、結局、最終的には利己的に生きていくしかない。言葉をかえれば、ほんとうにしたいことをして生きていくしかない、ということだ。また、その自由があるということだろう。そして、その自由は何者にもおかされることはないということだろう。

 A氏の話に居心地の悪い思いをしたというのは、A氏が自分の生き方を利己的な人間像のまえにおいて相対化していなかったように思えたからだろう。「君たちは、いい大学に入るために勉強しているのではない。」と言い切る権利はA氏にはない。何のために勉強するかなどは、個人が自分で決めることだ。何のために勉強したっていいのだ。何のために生きているかわからなくても、生きる自由はある。A氏は、ある大学に行って、久しぶりに再会した教え子が「何をしていいかよく分からない」と言ったといって嘆いていた。それこそ余計なお世話ではないか。A氏が嘆くのは、A氏が自分が「何をしたらいいか」が分かっていると思っているからだ。それはそれで結構だが、だからといってすべての人が「何をしたらいいか」が分かっていなくてはならないということにはならない。

 ぼくらは、何をしていいか分からないと悩みながらも、生きていく。自分が利己的にしか生きられないということに傷つきながらも、「ちぇっ、まったく嫌になっちまうなあ」と言いながら生きていく。それでも、ときどき、自分のしたことに感動することもある。人にほめられることもある。それだけが唯一の生きる支えのようにも思える。その行動が、ギターのコードを覚えたことであれ、ネパールに行って貧しい人と話したことであれ、その価値に差はない。それがほんとうに自分のしたいことであったならば。

(1998年)