酸ケ湯温泉にチョッとだけ


 

 酸ケ湯(すかゆ)温泉というのは、八甲田山中にある有名な湯治場である。修学旅行の引率の3日目、函館からユニコンという高速フェリーで青森に着き、そのあと分割コースということになり、ぼくは酸ケ湯で昼食後、奥入瀬を散策して、十和田湖を遊覧船で渡るというコースを選んだ。

 酸ケ湯は、前にやはり修学旅行の引率でこちらの方へ来たとき、バスで通過したのを覚えている。もう10年も前のことだが、しかし、その様子ははっきりと記憶していた。山間にひっそりとある、たった一軒の宿。ただ今回そこに降り立ってみて、意外に山が迫っていないので、「山間にひっそり」という感じではないことがわかった。

 昼食は、生徒たちと一緒に食べたが、その前の函館のホテルの食事が、お世辞にもうまいとは言えなかったので、なかなか結構なお味と言えた。「ここのはうまいっすよね」などと生徒が言うのを、「お前たちが食い物のうまいまずいをいうのは10年早い」と言いたいのぐっとこらえて、せいぜい「まあな」とか「生意気いうな」ぐらいのなま返事。

 昼食時間は1時間とってあったので、食事を終えて30分ほど時間があまった。温泉のほうは、入るつもりはなかったのだが、ふと浴場の入り口を見ると、入浴420円と書いてある。まあこうした湯治場だから、当然宿泊客ではなくても入浴は可能なわけだ。

 酸ケ湯といえば、「千人風呂」が有名だし、パンフレットも持っていた。入れるものなら入りたい。たまたまそこに居合わせた添乗員に聞くと、「入っても大丈夫ですよ。」という。しかし、生徒はどうするのか?入れてもいいのか。なにしろ「千人風呂」は混浴のはずだ。パンフレットにも、ジジババが混然と風呂に入っている写真(この「写真」という文字をクリックするとその写真が出ます。ご参考までに。)が載っていた。高校生には早いかもしれないなあ、まあ、生徒はいいや、ということで、自分だけ入ることにした。幸い生徒も近くにいない。

 「千人風呂」は、簡単に言うと、木造の体育館といった感じだ。しかし、さすが総ヒバ造りだけのことはあって、木の色が渋い茶色で、いかにもひなびた風情だ。大きな湯船のちょうど真ん中あたりのへりの両側に、小さな立て札みたいなのが立っていて、その裏表にそれぞれ「男」「女」と書いてある。それ以外に境界線はない。その立て札を挟んで、ふたりが風呂の向こうのへりに坐って話している。最初、男同士と思っていたら、ひとりはそれほどひどく歳をとっていない女性だった。胸のあたりをタオルで隠している。髪がショートだったのでわからなかったのだ。こちらもあわてて、下半身を隠す。

 打たせ湯というのもある。湯が滝のように落ちてくる下で、肩などを打たせるやつだ。頭が濡れないように、ビニールの袋まで用意してある。一人の中年の男性が、打たれている。はじのほうに、おばあさんみたいな人が向こう向きで打たれている。何だか、滝にうたれる修行のような格好だ。いや、ひょっとしたら、修行なのかもしれないと思いつつ、真ん中あたりに陣取って、ビニールの袋をかぶり、肩を打たせた。なかなかいい。ぼくは肩こりがひどいので、毎日こんなふうにしたいものだなどと思いながら、ふと右側をみると、さっきの中年の男性が、腹這いになって腰のあたりを打たせている。お尻丸出しである。やれやれ、と思って、ふと左側をみると、おばあさんみたいな人まで、腰をまるめてこちらにお尻を突き出し、腰のあたりを打たせている。まんまるいお尻が、結構ツヤツヤしているから年齢が60歳以下らしい。あわてて、出た。

 むかし、ある都立高校に勤めていたころ、試験の監督をしながら、4階の教室の窓からぼんやり校舎の前庭を眺めていたら、その木の下のあたりでこちらに背中を向けて草むしりの仕事をしてたオバチャンが、突然モンペをおろして、その場でおしっこをしはじめた。ぼくはそのときまだ20代だったので、非常にびっくりして(20代ではなくてもびっくりするだろうが)、あわてて目をそむけたが、そのときの、つるんとした丸いお尻が突然思い出された。

 しかし、ああいう空間というのは妙なもので、混浴でも何でももってこいみたいな、一種の異空間になっている。個人と個人の境目がなくなって、お湯の中で混ざってしまうというのだろうか。とにかく、エロチシズムがない。もっとも、若い女性が入ってくると違うのかもしれないが、人間、ある程度歳をとると、男も女もなくなってしまい、一種の森の妖精(あるいは妖怪)みたいになるものらしい。

 およそ20分ぐらいだったが、すっかりあたたまったぼくは、バスに乗り込んだが、黙っていればいいのに「オレ、風呂に入ったぞ」と自慢したものだから、「なぜ、自分だけ入ったのか。」「なぜぼくたちに教えてくれなかったのか。」と非難され、挙げ句に「まあ、混浴だからなあ。」と答えて、非難に拍車をかける始末。そのうえガイドさんが、酢ケ湯に着く前にはお風呂の話は何にもしなかったのに、「みなさん、実はね、お風呂がすばらしいんですよ。入りましたか。」などというものだから、「今頃言われたって、どうすんだよ。」と生徒はぶつぶつ。「先生、ほんとに入ったんすか。」という声があちこちで聞こえるなか、バスは雨の八甲田をひた走るのであった。

 

(1998年)