99 ピン

2005.9


 定年を間近にひかえた団塊の世代の連中が、ネットで仲間を集めていろいろなことをして楽しむ会を結成したりしているという話なんかをテレビなどで見るにつけ、コイツらのやることはあいも変わらずワンパターンだなあと嘆かわしくも腹立たしくなる。

 何もやるにもまず「仲間作り」である。何をやるにも「ワイワイ、ガヤガヤ集まって」であり、標語は「楽しく」である。どうして、「ひとり」で出来ないのだろうか。

 ぼくら(つまり団塊の世代のことだが)の幼い頃のヒーローは、月光仮面にしろ、アラーの使者にしろ、まぼろし探偵にしろ、少年ジェットにしろ、みんな「ピン」だった。中には、少年探偵団という集団ものもあったけれど、だいたいは「ピン・ヒーロー」だったのだ。特に、月光仮面は、何と言っても「月よりの使者」っていうんだから、何ともいえない孤独感を漂わせていた。だから、というわけでもないけれど、ぼくらのどこかに、「ピン」への憧れがあるのではないかと思うのだ。

 しかし、一方で、少年探偵団的な集団への憧れも強烈にあったのだと思う。大学に入ってすぐの大学紛争では、一瞬ではあるがクラスの一員として行動したことがあった。しかし、その直後に「集団の欺瞞」を感じて、離れた。「孤独」と「集団」との間で、振り子のようにいつも行ったり来たりで人生が過ぎた。

 これを「団塊の世代」に直接当てはめることはできないけれど、彼らもまたこの二つの間を揺れ動いたのではなかろうか。紛争をそれなりに、燃焼し消化した者は集団の快楽をその後も忘れられず、不完全燃焼し未消化だった者は孤独にとどまった、というのはあまりに図式的だろうか。

 落語を愛した小島政二郎は、晩年に「年をとったら、見るものが何にもなくてつまらねえ。」というので、談志(立川)が「映画とか芝居とはミュージカルがあるじゃないですか」というと、「きみぃ、僕はピン芸が好きなんでよ。」と答えたという。談志は、落語や講談というのは一人でいいんだ、余計なものはいらないすごいものなんだと思って衝撃を受けたと言っている。(「文学界」9月号)

 「仲間」を作って「集団」でやるだけが能じゃない。それが「団塊の世代」の得意技であるわけでもない。「団塊の世代」というネーミングが既にそういう誤解を与えるわけだが、「団塊の世代」は「団塊」である故に、いつも強烈に「ピン」を求めていたのだということは言えそうな気がする。


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