100 室内楽
2005.9
どこへも行かず、ただ部屋の中にいるだけでちっとも退屈しない、というのが理想的な境地である。
この境地に到達すべく日々研鑽を積んでいる、というほどではないが、それなりの努力はしているつもりである。
もっとも退屈を親のカタキのように憎んでいるわけではない。それどころか、退屈というのはいいものだとすら思っている。退屈する間もなく忙しい日々が続けば、退屈は憧れともなる。「ああ、つまんねえ、退屈だ。」なんてセリフには、なかなか贅沢な響きがある。
けれども、退屈が鬱屈へと進むと、これは困ったことになる。「鬱々として楽しまない」という心境にはなるべくなら落ち込みたくない。退屈が鬱屈へと進むのを阻止するためにも、できれば退屈しないことが望ましい。鬱屈へ落ちこまないギリギリのところで退屈を楽しむという境地もないわけではないだろうが、それはそれで相当高度な技術を要するだろう。
退屈しないためには、とにかく色々なことをすればよい。いちばん手っ取り早いのが外出であり、旅である。旅は自分を日常から切り離し、さまざまな刺激で精神を活性化する。毎日が生き生きとしてものとなる。だから、人は休みになると旅に出るのだ。
けれども、これはあまりに安易な道なので「研鑽」の対象とはならない。旅は、金と暇と健康さえあれば誰にもできる。金と暇と健康さえあれば誰にでもできることに、ぼくは魅力を感じない。金持ちにはなりたいが、金持ちがエライとは思っていない。
エライと心の底から思うのは、例えば正岡子規のような人である。病床六尺、畳一枚の上に病躯を横たえ、病の激痛に呻き苦しみながらも、死ぬまで退屈しなかった人。別に悲壮趣味でいうのではない。子規の肉体の生きた空間の狭さと、子規の精神の生きた空間の広さの対照が、限りなくぼくを魅了する。
熊本から上京する車中で、三四郎は広田先生と出会う。そのとき、先生はこんなことを言う。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……。」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中のほうが広いでしょう。」
(夏目漱石「三四郎」)
世界中、その気になればどこへでも行けるようになった。現代の人間の見聞は、明治時代のそれとは比較にならないほど広くなった。にもかかわらず、人間はちっとも賢くなっていない。世界はちっともよくなっていない。「頭の中」の広さに気づかないからである。