95 切ない願望

2005.8


 ヴァレリー・ラルボーは「罰せられざる悪徳・読書」の中で、読書を楽しみたいなら決して自分で本を書こうとするなというようなことを言っていた。一方で、書くことは読むことよりも十倍も楽しい、という言葉があるそうだ。さて、どちらが正しいのだろうか。

 ラルボーの言葉の意味は、自分で本を書く時間があれば、その時間を本を読むことに使ったほうがいいということだ。

 確かに「本を書く」には厖大な時間が必要だから、その時間をそっくり読書にあてれば、相当の量の本を読むことができるはずだ。時間さえあれば本が書けるというものでもなく、それに費やす労力も半端ではない。しかも、よほどの才能(あるいは自信)がなければ、自分の作品に満足することはできない。四苦八苦して本を出したとしても、そこに残るのは苦い悔恨でしかない、という場合がほとんどではなかろうか。

 そんな思いをしてまで、人はどうして本を書こうとするのか。自分を表現することの素晴らしさとか、読んでもらえる喜びとかいうけれど、結局のところ虚栄心の満足だろう。

 表現活動の根本には虚栄心があり、それは決して恥じることではない、というようなことを言っていたのはハックスリーだったか、オーウェルだったか。(というような曖昧な引用をわざわざするのも虚栄心のなせる業だが)恥じることはないといっても、「虚栄」が胸をはれる代物でないことは確かで、ものを書く人間は、だから、誠実なら誠実なほど、どこかにお天道様に向かって恥じるような物腰がみられたものだ。これを過去形で書くのは、そういう意味での誠実な作者というものを、ここのところとんと見かけないからだ。

 作者がそうなら、読者も読者で、ラルボーのいうような「書くことを自らに禁じるほどの読書好き」というのも、滅多にお目にかからない。もっとも、そういうラルボー自身が稀代の読書家であったとはいえ、書くことを自らに禁じ得たわけではないから、読書好きと言われるほどの人間にとって、書くことの誘惑から逃れることがいかに難しいかが実感される。

 だからこそ「書くことは読むことよりも十倍楽しい」というような言葉が生まれるわけだ。しかし、この言葉の出自は、おそらく「素人」だろう。プロの物書きなら書くことの苦しさをいやと言うほど味わっているから、間違ってもこういうことは言うはずがない。ラルボーの言葉は、読書好きのプロの物書きの切ない願望を語ったものなのだ。


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