93 まるで映画のワンシーン

2005.7


 スイスで開催された国際経済会議で、タンザニアの大統領が、マラリアの被害から国民を救うためには「蚊帳」が必要だ、しかし国際的な援助がないと訴えたのに対し、会議に出席していたハリウッドスターのシャロン・ストーンがすっくと立ち上がり、「私は1万ドル寄付します。」と言うと、次々に会場にいた政治家や経済人たちが「私は5万ドル」「私は2万ドル」と申し出て、タンザニアの大統領も感激したというシーンがNHKの報道番組で放映されたらしい。

 「らしい」というのは、そのシーンをテレビで見たのではなく、過日の栄光学園の創立記念式典で講演をした卒業生の今井義典氏がビデオで見せてくださったからだ。

 「私も」「私も」といって次々に立ち上がる人々と、その人々を見て涙を流す大統領の映像は、まるで映画のワンシーンのようで感動的ではあるが、どこか作り物めいたところがあって、そこに敏感に反応したのか生徒たちはざわめいた。

 インド洋の大津波の時には世界中から援助が届いたけれど、その津波が年に何回も襲うような深刻な被害のあるアフリカのマラリアやエイズに対しては、なかなか援助の手が届かない。今必要なのは「蚊帳」なんだ、という大統領の悲痛な声に対して、「私は1万ドル寄付します」という実に明快で率直なシャロン・ストーンの意思表明は非難されるべきいわれはない。にもかかわらず、そのテレビのワンシーンが「感動」だけで済まないのはなぜだろうか。なぜそういうシーンが「作り物めいた嘘っぽい」ものに見えてしまうのだろうか。

 おそらくそれは、そうした「偽善的」にしか見えないシーンを映画やテレビが作り出してきた結果、そういう映像に我々がすっかり慣れ親しんでしまったからだろう。だからリアルな映像を見ても、それがリアルには見えないのだ。9・11のあの衝撃的な映像も、何度これが現実なんだと自分に言い聞かせても「まるで映画のワンシーンのようだ」という思いから自由になれない。

 現実はそれが「映像」となったその瞬間から、現実とはまるで別の「映像独自の文脈」に組み入れられてしまうように思える。映像の製作の手法(カメラアングルから編集まで)が、現実を変形してしまうのだ。今回の例でいえば、そのドキュメンタリーの映像手法があまりにハリウッド的だったということかもしれない。しかし、現実をまっすぐに伝える「映像的手法」など果たしてありうるのだろうかという疑問は残る。


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