92 余計なお世話

2005.7


 いわゆる「多様性の時代」だから、まじめな人ほど悩んでしまって、精神的な安定を失い、つい断定的な物言いをする人を求めてしまう。こういう時代に「これこれはこうだ」とすっきりものを言えるということ自体がウサンクサイ証拠だが、どうしてもスッキリ感の魅力には抗いがたいものがあることも確かで、たとえば新橋などで酔っぱらいにインタビューすると決まって「やっぱり石原だよ。慎太郎が総理にならなきゃ駄目だよ。」などという答えが返ってくるのもそういう事情によるのだろう。当の石原も、そういうことを十分計算しているのかどうか知らないが、「数を数えられないフランス語は国際語として失格だ。」なんてことをわざと言って物議をかもしている。

 そんなことを言ったらフランス人だって怒るのは当然で、「それじゃ複数のない日本語なんてもっとダメじゃんか。」などと反論すればいいのに、裁判に訴えるなんてこと言ってるから、石原に「何でも裁判にすればいいってもんじゃない。」などとうそぶかれることになる。

 まあ石原にしてみれば、「国際語として」というところが重要で、国際語として失格のフランス語教員なんていらないよと、「首都圏大学」に関連して言ったようだから、フランス語を侮辱したとかしないとかの議論をしても始まらないわけだが、それにしても、そんなにフランス語が数に弱いなら、パスカルとか、ポアンカレ(何でこんな人の名前をぼくは知っているんだ?)とかいった偉大な数学者がどうしてフランス人なんだろうという疑問はごく自然に出てくるはずだ。それなのに、ワイドショーでは、わざわざフランス人に「91」はフランス語でどういうんですかなどと質問し、とんでもない複雑なその表現に「ヒエー!」と驚き、「デモ全然不便ジャナイデス」というフランス人の言葉は無視され、やっぱりフランス語はダメだわという結論が全国のお茶の間で結ばれる。当のフランス人が不便じゃないと言っているのだから、フランス語を使いもしない日本人が「やっぱりダメだ」と判定するのは余計なおせっかいというものだ。

 例えばアメリカ人が「古池や蛙とびこむ水の音」にケチつけて、これでは飛び込んだ蛙が一匹なのか二匹以上なのか分からない、そんな簡単なことすらきちんと表現できない日本語は欠陥語である、よくそんな言葉を使っていて平気なものだ、と批判したらどうだろうか。余計なお世話だというしかないではないか。


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