90 含羞と衒い

2005.7


 子供の頃から「お笑い」好きで、小学生の頃からテレビの漫才を見て畳の上を転げまわっていた。それは今も基本的には変わらなくて、いくら低級だと言われても「お笑い番組」は好きだ。もっとも笑えない「お笑い」は好きではないが、それでもまあ憎む気にはなれない。人を笑わそうという志は尊い。

 そういうわけで嫌いというわけではないのだが、どうしても好きになれない「お笑いタレント」や「お笑い芸人」というのはいて、そういう彼らの共通点をつらつら考えてみるに、どうも「飄々とした」と評される類の人たちのようである。

 例えば「欽ちゃん」。彼の語り口がどうしても好きになれない。「コント55号」は死ぬほど好きで死ぬほど笑ったけれど、「欽ちゃん」が単独で出てきてしゃべると、どうもいけない。どうしてふつうにものが言えないのか、どうして幼児みたいなしゃべり方をするのか、と思ってしまうのである。先日も「欽ちゃん」の率いる「ゴールデンゴールズ」だかの試合の様子をテレビで見たら、何と試合中に「欽ちゃん」がマイクを持って例の調子でしゃべっているのでびっくりした。そもそもそんな野球って「あり」なんだろうか。

 また、たとえば「オヒョイ」こと藤村俊二。「オヒョイ」というあだ名が「飄々」から来ているのかどうかしらないが、彼の持ち味は、まさに「飄々とした物言い」なのだろう。その人を食ったような、ぼけたような、世俗に超然としたような物言いの内容とそしてその語り口。普通にしゃべれ、といつもイライラしてしまう。

 「お笑い」の世界だけではない。禅宗の坊さんとか、カトリックの神父さんとかにも、そういう類の人はいる。決してまともにものを言わない人。まるでバカみたいにふるまう人。コチコチのガリガリ頭かと思っていたら、何だかとらえどころのない面白い人だといった印象を残す人。そういう人にある種の魅力は感じるけれど、どこか胡散臭い。

 結局彼らに共通するのは、「飄々とした」物言いなり、考え方なり、生き方なりが、どこか作り物めいているということだ。ほんとうは、ものすごく頭がよくて切れる人なのに、わざとそれを「飄々とした」身振りなり語り口なりでコーティングしているのだということが、どこかでチラチラ見えてしまう。そこがとてもイヤラシイ。それをよくいえば「含羞」ということにもなるのだろうが、ぼくにはどうしても「衒い」に見えてしまうのだ。


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