88 「読解力」の彼方に

2005.6


 「人生とは何か」と聞かれたらどう答えるべきだろうか。という問自体が意味をなさない。その質問がどのような文脈でどのような人間によってなされたのかによって答え方も違ってくるからだ。中学生に向かって「人生はね、結局諦めさ。」なんて答えるのは犯罪的だろう。

 先日中学生のお母さん方との懇談会の中で、「読解力をつけるにはどうしたらよいでしょうか。」という質問がでた。これでも一応は国語の教師だから、それなりの答を用意しなければいけないところだったのだが、不意をつかれた格好で、ついその場の文脈を忘れてしまい、いきなり「ぼくも読解力がないんです。」と口走ってしまった。お母さん方は一瞬唖然とした顔をした。あ、いけないと思ったけれど、後の祭り。

 こんなことを口走ってしまったのは、ぼくの中にすでに文脈ができていたからなのだ。最近読んだ荒川洋治のエッセイの中にあった「ぼくは読解力がない。」という言葉に強い印象を受けていたのである。荒川洋治という天才的な詩人は、ぼくと同い年。それだけに嫉妬にかられ敬遠してきたが、最近はこちらも枯れてきたから共感をもって読める。荒川は書評も長く担当したこともある、いわば「読解」の「プロ」だ。その人が「読解力がない。」と言ったのだ。しかもその後にドラマに出てくる人間の数が多くなるとすぐに分からなくなるというようなことが書いてあって、ますます「我が意」を得た気分になっていたのだ。

 そういうぼくなりの文脈のなかで、その言葉が口をついて出た。「読解力」という伝家の宝刀みたいなものが存在して、それがあればどんな文章でもたちどころに分かります、というようなことはない。ぼくらのまわりには常に「分かること」と「分からないこと」がある。そして大切なのは、ほんとうは分からないことを、「読解力」で分かった気になることではなく、「分からないこと」をいつまでも気に掛けていること。そうすることで、「読解力」の彼方に真の「理解」が生まれる可能性がある。そんなことを詳しく説明なければならなかったのだが、もちろんそういう場ではなかった。

 お母さん方は、そんな小難しことではなく、もっと単純な「読む力」をつける方法について聞きたかったはずだ。その文脈を忘れたぼくはまさに「読解力」に欠けるのだが、「読解力」という言葉自体に過剰に反応してしまうところが、また「読解力」に欠ける人間の特徴であるのかもしれない。


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