87 どこでもドア

2005.6


 本は図書館で借りて読めばいいという人がいる。川崎長太郎という作家も、本はもっぱら図書館から借りて読んでいたので、自宅はさっぱりしたものだったという。

 もちろん、これは正論である。読みもしない本を買いあさっては、アリのように自宅にせっせと溜め込み、その収拾のつかない紙の山を家人に迷惑がられるよりは、よほど立派な生活態度である。それに図書館から借りて読む人の方が、蔵書家よりも断然本を読んでいるのではないかと思う。読書家は必ずしも蔵書家ではないのである。

 図書館から借りた本というのは、どうしても返すまでに読まなきゃという緊張感があるから、忙しくても時間をひねりだして読む時間をつくる。逆に、買ってしまった本というのは、いつでも読めるという安心感があるから、そのうち読もうと思って本棚に置いておくと、ついそのままになってしまう。

 おまえは読書家か、それとも蔵書家かと聞かれたら、蔵書家だと答えるほかはない。蔵書といっても、せいぜい5000冊程度だし、いわゆる稀覯本なんてものも全然ないから、蔵書家といえるのかどうかすら分からないが、普通の家庭からすれば「本だらけ」という印象は免れまい。それなのに、ぼくの読書量は、ほんとにたいしたものではない。本も読まずにダラダラとテレビを見ている時間の方がはるかに多いのだ。

 読まないのに買い込む。もちろん絶対に読まないというわけではないが、それでも蔵書の中で、全部読み通した本といったら、おそらく1割にも満たない。これは読書家からすれば理解に苦しむことだろう。

 真相はこうだ。本に囲まれているのが楽しいのだ。これしかない。

 実際に旅行に行かないのに、時刻表や地図を見ているだけで楽しいというような人がいるが、それと似ている。本の背表紙は、時刻表の時間であり、地図の上の地名や記号である。大西巨人『神聖喜劇』という文字を眺めながら、ここには日本軍部の闇が克明に書かれているんだろうなあとか、小島信夫『別れる理由』という文字を眺めながら、こんな題名でどうして3冊になるんだろう、いったいどんな人間のこころの襞が書かれているのだろうかなどと思うだけで楽しいのである。

 しかも、時刻表や地図と違って、直ちに「そこ」に入って行くことができる。実際の旅がいきなり始まるのだ。そういう意味では、まことに幼稚で陳腐な比喩だが、本は『ドラえもん』の「どこでもドア」みたいなものだといえそうである。


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