83 仕事と娯楽

2005.5


 娯楽は許されてはいるが、人生の偉大にして真面目な仕事の地位にまで上げることを、日本人は決してしないのである。英国では──少なくとも上流階級では──男性のやる狩猟、魚釣り、ゴルフ、女性のダンスパーティ、園遊会、田舎の本邸訪問──これらを中心として家庭の諸計画が回転しているように思われる。それとは逆に、日本では、娯楽はついでに採り上げられるにすぎない。

 これは、明治時代に東京帝国大学で教鞭をとり、小泉八雲とも親交の深かったチェンバレンという人の言葉である。(「日本事物誌」)

 この後で、最近では日本人もヨーロッパ人の影響を受けてだいぶ娯楽に興ずるようになったなどと書いてはいるが、実際には、大正・昭和をすっとばして平成の現代の日本を考えてみても、事態はそれほど変化しているようには思えない。多くの日本人にとっては、娯楽は相変わらず「ついでに採り上げられる」ものであり、「それを中心に家庭の諸計画(そんなものすらあるのかどうか大いに疑問だが)が回転している」とは到底思えないのである。

 しかし到底思えないなどと言っているのは、ひょっとしたら少数派なのかもしれないという気もする。案外世間には娯楽を中心に、家族とはいかないまでも自分の生活が回転している人のほうが多いのかもしれないし、実際にそうとしか思えない人々を何人も知っている。そういう人を見ると、心底うらやましいと思ってしまう。軽い嫉妬も感じて、心の中で「なんだ遊んでばかりいやがって」と呟くこともあるが、次にくるのは「遊べない自分」への忸怩たる思いである。

 ぼくの場合は、生活は何といっても「仕事」を中心に回転している。「仕事」こそ命だとか、「仕事」に情熱のすべてを傾けているとか、そういうことでは全然なくて、「仕事」が多すぎて、娯楽が中心になんてなりようがないというだけのことで、まことに情けない話だが、それでどこが悪いという居直りの気分もある。

 「遊び中心」の生活がそんなに立派なことなのか、「娯楽中心に生活が回転する英国紳士諸君」がそんなに偉いのか、と毒づきたくなる気分がどこかにある。

 まあしかし、所詮は「負け」である。「仕事中心」はやはりわびしい。毎週休日には外車でゴルフ、なんていうほうがいいに決まっている。ただ「仕事中心」が、明治時代からすでに日本人の常態だったのだと思えば、かりそめの慰めにはなろうというものである。


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