81 ヤクザとジーパン

2005.4


 最近読んだ推理小説の中に「ショパンの嫌いな女と、ジーパンをはいたヤクザはいない。」というような一節があった。ショパンの嫌いな女というのは、ちょっと探せばすぐにみつかりそうだが、ジーパンをはいたヤクザというのは、確かにそう簡単には見つかりそうもない。

 何でヤクザはジーパンをはかないのか。ジーパンをはくと、どうしてヤクザらしくなくなるのか。と考えても、ヤクザとおつきあいがあるわけではないから、映画などで知る範囲にとどまるわけで、それなら「仁義なき戦い」にでてくるヤクザでジーパンをはいている奴がほんとにいないのか確かめたくもなる。

 それにしても何でヤクザはジーパンをはかないのか。そもそもジーパンというのはアメリカで生まれた作業着だったというから、いわゆるまっとうな生業につかないヤクザに作業着はふさわしくないということなのだろうか。

 しかし、かつてのヒッピーたちがはいていたのも、ジーパンだったはずで、彼らはヤクザ顔負けの労働拒否組だったわけだから、「ジーパン=労働」という図式は成り立たない。むしろ彼らにしてみれば「ジーパン=自由」という図式ではなかったか。資本主義社会の過酷な競争から身をひいて、自由気ままに生きるのだという思いがジーパンによって表現されていたはずだ。

 ジーパンはつまり、その出自は作業着だったにしても、その後の流行のなかでは、「反秩序」「反権威」の象徴となったのだ。大企業が独占していた巨大コンピュータをパーソナルなものとしたアップルのスティーブ・ジョブスが、いつもジーパンをはいていたのもそういう意味合いだろう。大企業になった今でも、アップルはだから好きだ。どこか「権威」に刃向かう心がある。

 とすれば、ヤクザの世界は、資本主義社会よりもなお「秩序」「権威」を重んじる世界に違いないから、やはりジーパンはふさわしくないということなのだろうか。どんな下っ端のチンピラでもきちんとスーツで決めている、ような気がする。

 しかし同じ(?)ヤクザでも、昔の「渡世人」「股旅」といった人たちは、むしろ「秩序」や「権威」から遠いところにいたはずで、彼らが現代を生きるとしたら、やはりジーパンをはくのかもしれない。

 ところでどういうわけか、ぼくはジーパンをはいたことがない。へそ曲がりだから、ジーパンの「反権威・反秩序」気取りに反発していたのかもしれない。最近では単に腹が出ているからにすぎないが。


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