76 夢の部屋

2005.3


 歯医者の待合室で、何気なく「家庭画報」をパラパラと眺めていると、瀧口修造の展覧会を世田谷美術館でやっているという記事が目にとまった。

 瀧口修造といっても、あまり一般には知られていないが、日本の美術界では大変に影響力のあったエライ批評家であり、またエライ詩人でもあった。たいして読んでもいなのに、この人の全集まで持っているということもあり、これは何をおいても出かけなければと、3月24日にでかけた。

 題して「瀧口修造 夢の漂流物」という展覧会。たいして読んでいないとはいえ、この詩人が一風変わった人で、自宅の部屋には、様々な知人(といっても庶民とは違って、ミロだの、ブルトンだの、池田満寿夫だの、加納光於だの、野中ユリだのといった、まあそうそうたる芸術家)が持ち込んだ「オブジェ」を所狭しと置いてあるということぐらいは知っていた。その写真も見たことがある。

 で、今回は、その「オブジェ」を「夢の漂流物」と見立てて、一堂に展覧しようという企画だった。芸術家の作るオブジェだから、何やら得たいの知れないものばかり。虫ピンが一本入っている卵の殻だったり、ボール紙の箱に入った石や貝殻だったり、頭のない真っ赤な布の人形だったり、タバコの箱に詩のようなものを書いたものだったり、とにかく何も知らない人が見たら単なるガラクタのようなものが、よくもまあこれだけとっておけたものだというほどの厖大な量をもって並んでいた。

 展覧会のチラシに、そういうモノや本で足の踏み場もない部屋のなかに、満悦至極の表情で座っている詩人の写真が使われている。こういう部屋は、頭の中では非常に憧れるのだが、現実的にはとても堪えられそうにない。とにかく部屋が片づいていないとイライラして仕事ができないのだ。こんな部屋にとてもニコニコして座ってなんかいられない。ぼくなら、たぶん暴れ出す。モノを部屋の外に投げ捨ててしまうかもしれない。

 ぼくの中では、モノへの執着と嫌悪が半分半分で同居している。だから乱雑さにイライラするのだろう。整理整頓は、それを中和する手段のように思える。

 しかしおそらく瀧口修造は、これらのモノを、現実のモノとして見ていない。モノを「夢化」しているのだろう。この部屋は、詩人にとっては、むさ苦しい部屋ではなく、夢の波が静かにたゆたう渚なのだ。だからこんなにも詩人は幸福そうなのだ。やはり詩人というのはタダモノではない。


Home | Index | Back | Next