75 疎竹・寒潭、君子の心

2005.3


 前回紹介した「菜根譚」にこんな言葉がある。

風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹に声を留めず。雁、寒潭(かんたん)を度(わた)るも、雁去りて潭(ふち)に影を留めず。故に君子は、事来たりて心始めて現れ、事去りて心随いて空し。

 意味はこういうことだ。「風がまばらな竹藪に吹いていると、その時、竹の葉は風に吹かれて鳴るけれども、吹きすぎてしまえばもとの静けさにもどり、竹藪にはなんの音もしない。また、雁が冷たく澄んだ淵の上を渡っていくと、その時は雁の姿を水面に映すけれども、雁が飛び去ってしまえば、淵の上の雁の姿はまったく跡を留めていない。だから君子(立派な人)というものは、何か出来事が起こると、はじめてそれに対応する心があらわれ、それが過ぎてしまえば、それにしたがって心もまったく無になってしまう。」(講談社学術文庫・中村璋八、石川力山訳による)

 いい言葉だ。まばらな竹藪に吹く風、冷たい澄んだ淵の上を飛ぶ雁、という澄んだイメージがまず素晴らしい。「疎竹」「寒潭」がそれぞれ君子の心だというのだ。普段は何にもしないでぼんやりしているようだが、事が起こると素早く反応するという柔軟性。感性の豊かさ。そして、事が終わると、もう何事もなかったように静かな心に戻ってしまうさりげなさ。

 今の世の中にこういう人間はまずいないだろう。絶滅危惧種のようなものだ。

 普段から自分の力を誇示してうるさく立ち回り、そのくせ一端コトが起こるとすぐに逃げ腰になり、面倒なことはとことん人に押しつける。それが今度はたまに何事かを自分でやったとなると、もうそのことを何年たってもまるで世界を変えた偉業のように繰り返し繰り返し語って聞かせ周囲をうんざりさせる。そんな人間のなんと多いことだろう。かくいう自分自身もそういう種類の人間に属することはまず間違いない。

 もっとも人間、そんなに立派なモノでなければならないこともない。「君子」になろうと日々修行に努めてみたところでたかが知れている。あるがままでいいのだと基本的には思っている。けれども、業績さえあげれば、金さえ儲ければ、それが人生の「勝ち組」だ、みたいな生臭い価値観が恥ずかしげもなく横行している現代にあって、そういう「君子」像は、清冽な流れのようにぼくらの気持ちをすっきりさせてくれる。だから古典は読む価値がある。


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