73 漢字制限の是非

2005.3


 長かった大学紛争もようやく終息にむかった大学三年生の頃だったろうか、新学期そうそう五島美術館で源氏物語絵巻の展覧会があったので、授業をさぼってでかけたところ、その次の授業で、山本君、何でこの前は休んだんだと叱られた。その教授が中田祝男というエライ国語学者だった。そんなエライ先生が、ぼくのようなチンピラ学生が授業を休んだことを覚えていて叱ってくれるなんてことがあるんだと半ば驚き半ば感激して、その先生の授業だけはその後休まなかった。

 国語学は好きではなかったが、ちゃんと出ただけのことはあって、少しは興味が持てるようになったが、詳しいことはもちろん覚えていない。ただ一つだけ印象深かったのが、漢字制限に関する先生の意見だった。エライ国語学者というと、どうしても「漢字制限なんて文化の破壊だ」というようなことを言いたがるものだが、先生は違った。当用漢字(今でいう常用漢字)の制定は必要だったし、正しいのだという意見だった。

 最近では白川静が、漢字の重要性をずいぶんと強調していて、あれだけの碩学に言われるともっともだと思うのだが、しかし、ぼくらが普通に使うことのできる漢字というのは、多ければいいというわけではないだろう。常用漢字で一応は十分であるとぼくは思う。その点では、中田先生の「教え」をしっかりと受けついでいるつもりである。

 誰も読めないような難しい熟語を並べていればそれで高級な文章だと思っていられるような時代はとっくに終わったと思っているのだが、昨今の評論などを読んでいると、どうもそうでもなさそうだ。相変わらず難しい熟語を並べたがる知識人ばかりだ。そのうえ外来語のオンパレードだから、まったく何を言いたいんだかさっぱり分からない文章になってしまう。

 評論家ならそれもいい。勝手にさせておけばいいのだが、最近気になるのは、昨年の名前に使える漢字の大幅な追加である。国民からの要望が多いからだというが、ただでさえどう読めばいいのか分からないパズルのような名前の氾濫している日本で、これ以上漢字を増やしてどうするのだろうか。

 昔の武士なんかはどうもわざと読めないような名前をつけたフシがあるが、そういう権威主義は民主主義の時代にふさわしくないというところから制限が設けられたのだろう。どうもその「民主主義」という言葉が、だんだん時代錯誤に感じられるような世の中になって来ているような気がしてならない。


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