71 「自分の神」という誤り

2005.2


 サッカー選手がゴールを決めたあとに十字をきって神に感謝したり、ボクサーがリングにあがるときに神に祈ったりする姿は、信仰心あつい謙虚な姿として世間から誉められこそすれ非難されることはない。一方、かつてのタリバンの兵士がバーミヤンの仏教遺跡を爆弾で破壊しながら「神は偉大なり」と叫ぶ姿は、世界中から非難された。これはずいぶんとおかしなことだ。

 もちろん、サッカー選手やボクサーの祈りの所作は、それほど深い意味はなくて、ただ単なる習慣に過ぎないのだろうが、もしサッカー選手がゴールを決めたのが「神様のおかげ」だと本気で考えているのだとすれば、やはり問題である。

 神様なんていないと考える立場からはもちろんナンセンスなことだが、神様を信じる立場からもこれは大きな間違いである。

 キリスト教的に言えば、神様は公平なはずだから、二人のボクサーの片一方だけを応援するということはありえない。サッカーのゴールが決まった時に、決めたぞと喜んでいる方だけを祝福しているはずがなく、ゴールを決められて悲しんでいるキーパーをも祝福しているに違いないのである。だから、ゴールを決めた奴だけがまるで神様が自分だけを応援してくれたかのように「ありがとう」って感謝するのは、「何、お前だけいい気になってんだ」という非難の対象になって当然だし、信仰心あついキーパーならば、「この悲しみの経験をありがとうございました」と十字をきらなければ、宗教的には辻褄があわない。

 もちろん、こんな辛気くさいことをしていたらスポーツにならない。何でもいいから盛り上がればいい。スポーツならそれですむ。

 けれども、宗教が実際の生活のなかに根をおろすと、宗教的な教義からはほど遠い、あるいはまるで逆の「行為」となってあらわれてしまうということは心に留めるべきことだ。イエスの教えは「汝の敵を愛せ」に集約されるとぼくは思っているが、そこからは絶対に「戦勝祈願のミサ」などという概念は出てこないはずなのに、当たり前のように行われてきた。宗教は政治とか国家と結びついたとき、瞬間的に堕落してしまうのだ。

 人間は自己中心的だから、どうしても「神」は「自分の神」だと思ってしまう。人格的な神をたてる一神教において、どうもそれが甚だしいように思う。そこから脱却するには、老子の「無」とか、仏教の「空」とかいった考え方からもう一度深く学ぶ必要があるのではなかろうか。


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