70 鑑真あるいは冬のケヤキ

2005.2


 国立博物館で開催されている「唐招提寺展」を見にいこうと、学校のほうは午後から半日の年次休暇をとり、上野駅に降りたのが3時半ごろ、公園口の改札を出ると、冷たい雨が降っていた。風も冷たく、久しぶりに耳がちぎれるような感覚を味わった。国立博物館がやけに遠く思えた。

 一昨年の2月に、中学生の研修旅行につきそって奈良を訪れた際、唐招提寺は工事中で見学はできません、再び姿を見せるのは10年後です、と解説するバスガイドさんに「それじゃあ、もう生きてないなあ」と言ったら、「そんなこと言わないでください!」と真面目な顔をして叱られた。50歳を越えた人間としてはごく普通の感想だとおもうのだが、若いガイドさんにはちょっとショックだったのかもしれない。

 その工事が幸いして、滅多に見ることのできない「鑑真和上像」が上野に来たのだ。これはどうしても逃せない。

 「鑑真和上像」の写真は、高校生の頃からたびたび見ていたが、その度に感動し、何とかして実物をみてみたいものだと思い続けてきた。唐招提寺には、10回近く行っているが、もちろん「鑑真和上像」は公開されておらず、その像が安置されている「御影堂」すらどこにあるのかぼくにはわからなかった。「鑑真和上像」こそは、おおげさなようだが、ぼくが長い間恋いこがれてきた「国宝」なのだ。

 唐招提寺展は、おそらく大混雑だろうと思っていたぼくの予想は見事にはずれた。平日の夕方、しかも氷雨、という条件故なのか、とにかく金堂内陣を再現した部屋に安置された仏像の周囲には数名ほどしかいないと言う状態で、心ゆくまで拝観することができたのは、ほんとうに幸いだったけれども、かつての「モナリザ」人気を考えると寂しくもあった。

 「鑑真和上像」は、ガラスケースの中に安置されていた。巧みな照明によってガラスの反射も一切なく、間近に見ることができた。言葉もなかった。等身大と思われる座像は、鑑真その人がそこにいると思わせる迫力にみちていた。鑑真の精神がまさに不滅であることをその座像は証明しているように思えた。

 外へ出ると、上野公園は、薄暮に包まれていた。雨があがって、少し温かくなった公園の空を見上げると、ケヤキの枝が、灰色の空に無限の編み目を描いていた。あの鑑真和上像にもし匹敵するものがあるとすれば、それは、東山魁夷の襖絵ではなく、この美しい冬のケヤキの枝だろうと思った。


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