69 数量化という悪癖

2005.2


 中学生のころ、美術の先生が話したことが今でも頭のどこかにひっかかっていて、ときどき思い出される。それは「ある日、画家が、自分は一生のうちに何枚絵が描けるだろうかと思って計算してみたところ、そのあまりの少なさに絶望して絵を描くのをやめてしまった。」という簡単な話だ。

 この話は、どうも妙に身につまされるところがある。とくに50も半ばという年齢になってくると、どうしても、あと何年生きられるのだろうか、生きている間にどれくらいのことができるだろうかといったふうな思考に傾いてしまう。例えば、あと20年生きることができるとして、何枚の絵が描けるだろうとか、旅行には何回ぐらい行けるだろうかとか、そんなふうにばかり考えてしまうのだ。そして、そんなふうに考えたあとに残るのは、人生なんてたかだかこんなものなのか、つまらないなあという索漠たる感慨なのである。

 こうした思考の間違いというのは、おそらくものごとを数量化して考えるところにある。「何年」「何枚」「何回」という、「目に見える数」に還元してしまうと、人生は非常に狭くかぎられたものに思えてしまう。もちろん、人生には限りがあり、人は永遠に生きられるものではない。けれども、数量化しないかぎり、実は人生は永遠なのだ。ぼくらはそのことにどこかで気づいているのに、ついつい数量化して考える悪癖が身に付いているために、その真理をいつもつかみそこねているのではなかろうか。

 その画家も、あと何枚描けるだろうかと計算しないで、1枚1枚の絵を描くことに没頭していれば、その時間の中に永遠を感じることができたはずなのだ。永遠というのは、いうまでもないことだが、時計の針の先にあるのではない。1時間を何万倍しても永遠になるわけではない。「1時間」というような数量化された時間とは無関係のところに永遠はある。

 恋をしている若者が、好きな人と過ごす時間が永遠に続けばいいのにと思うそのとき、実は彼らは永遠の中にいるのだ。いやそんなことはない、彼らは数時間後に別れねばならないではないかというかもしれない。けれども、永遠につづけばいいと思ったその思いは、彼らが死ぬまで消えることはないはずだ。

 「数量化」は「デジタル化」という形で、現代人の生活を覆い尽くしている。デジタル化の恩恵を太陽のように受けながらも、その太陽がすべての水分を地表から奪うこともあることを片時も忘れてはなるまい。


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