67 ぼくの町

2005.1


 ぼくが生まれ育った町は、当時横浜最大の繁華街だった伊勢佐木町商店街の通りをずっと西に向かっていったその外れにあったお三の宮商店街のそのまたはずれ、町名でいえば南吉田町四丁目というところだった。南吉田町は五丁目までしかなく、その先は運河でもう商店街はなかったから、関内から延々と西に向かって続く商店街のどん詰まりといってよかった。

 そのお三の宮商店街も、ほんとうに商店街らしいのは三丁目までで、四丁目となると商店は少なくなり、職人の家が多く並んでいた。

 ぼくの家がペンキ屋つまり塗装店(ペンキを売るのではない。ペンキを塗る職人である。)、その右隣(通りから家に向かって)が米屋、左隣が床屋(裏の路地に面した所では駄菓子屋をしていた)、その隣が警察官の家(これを仕舞た屋といった)、その隣が銅工屋(普通に読めばドウコウヤだろうが、ぼくらはなぜかドウコヤといっていた。ここのおばあさんは横浜大空襲で手に大やけどをしていたのを今でもはっきりと覚えている)その隣が酒屋。この酒屋の息子はぼくより年上で、いわばガキ大将。その隣が確か門構えの立派な家で、確か土建屋さんだったと思う。その隣が豆屋、その隣あたりになると段々記憶があいまいになるが、1〜2軒あって電車通り(もちろん路面電車だ)になって、その向こうは三丁目である。

 ぼくの家のお向かいさんは、タイル屋(タイルを張る職人)、その左隣がラーメン屋(ここの娘と叔父が結婚したので、親戚になった。)、タイル屋の右隣が水道局に勤める人の家これも仕舞た屋。ここの息子とぼくが同級生で幼なじみだった。幼なじみということでいえば、米屋の娘は、ぼくより年上だったが、小さい頃はよく遊んだ。水道局の隣が仕立屋、その隣が途中でやめてしまったが貸本屋で、ここの息子はぼくより年上だったが、やさしい子でよく遊んでもらったが、その妹は確かぼくの同級生だったが、小学生に頃、心臓病のために亡くなった。その隣が桶屋。これもただ出来合いの桶を並べているのではなくて、家の前で桶を作っていた。その先に何軒かの仕舞た屋があって、電車通りに面したところに金物屋があって、ここの娘がまた同級生でこの子ともよく遊んだ。

 こうやって並べるだけで、幼いころの気分までもが蘇ってくるような気がする。この町も今はその面影はまるでなく、ただ似たようなマンションが建ち並んでいるだけだ。行く気もしない。


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