63 年の瀬の反省

2004.12


 人を救うということは、人を豊かにするということです。ただし、問題は「私が人を救う」ということではなく、「人が救われる」ということです。この意味は分かりますね。そういってガラルダ神父は生徒たちを見た。

 栄光学園では毎年終業式の日に、クリスマスメッセージと称して、外部から人を招いて講演が行われる。かれこれ20人ほどの講話を聞いてきたのだが、あまり面白かったり感動したりした記憶がない。そもそも人の話を黙って聞かなければならない講演会というものが嫌いなので、ずるして途中で抜け出してしまおうかなどと不埒なことを考えていた。教師だからといってそんなことが許されるわけではないが、やろうと思えばできないことでもない。歳のせいか、どにかくこらえ性がなくなって、我慢できないことはどうしても我慢できなくなってきていて、そのくらいなことは大目にみてもらえそうな気もしていた。

 けれども、今回のガラルダ神父の話はその軟らかい語り口で、ぼくを座席から立たせなかった。「人を救うということは、人を豊かにするということだ。」という言葉は、今までどこかで聞いたことがあるようでいて、なぜか新鮮に響いた。そうか、「人を救う」という大げさな表現を「人を豊かにする」というように置き換えると、宗教特有の尊大さが薄れて、誰にでも納得のいく話になるんだ。そんなふうに感心していたのかもしれない。そしてその後の問い。

 「私が人を救う」というとき、そこではいつも「私」が問題になります。結局「私が救ったんだ」という満足感を求めていることになるのです。問題は「私」ではない。問題は「人が救われる」ということだけです。人が救われれば、「私」など、どうでもいいのです。クリスマスに日本人が自分の誕生日だということをすっかり忘れていても、いろんなところでプレゼントをもらって喜んでいる人がいるなら、キリストは、それはそれで喜んでいるでしょう。キリストはひがんだりしませんよ。

 神父の話には、もちろんその後があった。けれども、このことがぼくには一番大事なメッセージのように思われた。ぼくはこの話を聞きながら、自分のことしか考えない目立ちたがり屋の人間たちのことを苦々しく思い出していたが、所詮自分も彼らと五十歩百歩ではないかと思わざるをえなかった。ほらほらこれはぼくがやったんだよ、褒めて、褒めてとみんなに向かって叫んでばかりいる自分。反省しきりである。


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