62 絵描き三代

2004.12


 父方の祖父は、静岡県は蒲原の出身で、横浜に出てきてペンキ職人になったらしい。横浜のドックで船などを塗っていたが、そのうちペンキ屋の親方になった。いきなり親方になったというよりも、おそらく自分で店を持ったということだろう。なにしろ器用な人だったから、「字書き」としても一流だったのではないかと思う。とりたてて書道を学んだわけではなさそうだが、見事な字で看板を書いた。だから小学校の「お習字」の時間に、先生が「ペンキ屋」さんはだめですよというたびに不愉快な思いをした。先生のいう「ペンキ屋さん」とは、字をあとからなぞることをいった訳だが、もちろん書道ではそんなことはしてはいけないのだろうが、トロトロしたペンキで字を書くともなれば、なぞらないでは書けない。それなのに、あたかもペンキ屋さんの書き方は邪道なのだとでもいうかのような先生の口ぶりに、子供ながらに腹をたてていたのだろう。

 しかし祖父の本領はおそらく字ではなく、絵、それも銭湯の背景画だった。銭湯の背景画というものは、一度描けばおしまいというわけではない。ときどき絵を替える。それが庶民の楽しみにもなる。だから祖父は多くの銭湯の絵をずいぶんたくさん描いたはずだ。その描いている現場を見に行ったことは残念ながらないが、父が「オヤジの描くスピードはすごいんだ。絵筆を口にくわえて、あっという間に描いていくんだ。」といったようなことを感に堪えないというふうに話すのを一度だけ聞いた記憶がある。

 その父はといえば、祖父の描く絵を「職人の絵」にすぎないといって、その芸術性を認めなかった。そして自分は本当の絵を描くのだといって、油絵の風景画を描き続けた。祖父の絵の器用さとは対照的に不器用な絵だったが、誠実さにあふれる絵だった。横浜では伝統のある公募展「ハマ展」に何度も入選した。

 祖父は銭湯の背景画を描かなくなってから、家で年中油絵を描いていた。外に出てスケッチするというようなことはなく、新聞などに載っている写真を見ながら、自分流の描き方のスタイルで絵にしていってしまうのだった。それは確かに父がいうように「職人の絵」だった。

 ぼくはそうした二通りの絵の描き方を端から眺めながら育った。やがて自分でも絵を描くようになったが、父と祖父の絵は両方ともぼくの絵のスタイルの中に流れ込んでいるような気が最近になってする。それが何となく嬉しい。


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