60 雀百まで

2004.12


 雀百まで踊り忘れずというが、確かに幼い頃に身に染み込んだものは、一生ついて回るものだと最近つくづく思う。

 高校生の頃は民謡に凝っていて、ビクター少年民謡会のソノシートを買ってきては練習にこれつとめ、覚えると遠足のバスの中などで歌っては同級生の顰蹙をかっていたのだが、そのことを『栄光学園物語』という本に書いたところ、それを読んだ同級生が、「ほんとに、あんな歌ばかり歌って、なんてこいつは馬鹿なんだろうと思っていたよ。」なんて言う。そこまでの顰蹙をかっていたとは正直思わなかった。

 ちなみにこのビクター少年民謡会というのは、まだ存在しているらしく、アイドル歌手から演歌歌手に転向したのだとばかり思っていた長山洋子も、幼い頃この会に所属して民謡を歌っていたのだということを先日ラジオで知った。とすれば、長山はもともと「演歌歌手」向きだったのだ。

 その話を聞いて、ぼくもソノシートを買って聞いて練習するなんてレベルで満足しているのではなく、ビクター少年民謡会に入ってしまえばよかったのだと今更ながらに思った。そうすれば、今頃は場末の酒場でひっそりと演歌を歌って生計をたてていた(たつわけないか?)かもしれない。

 それはそれとして、大学生になったぼくは、教養主義にどっぷりつかって、クラシック音楽を聴き始めたのだったが、いくらレコードを聴いても、コンサートに通っても、どうもいまいち理解が深まらないのだった。

 ベートーベンのピアノソナタは素晴らしいとは思っても、ピアニストの演奏の違いがどうもよくわからないんだなあと、都立高校にいたころ音楽部の生徒に話したら、「どうしてですか。全然違うじゃないですか。」と彼だか彼女だかは言って、露骨に「馬鹿みたい」という顔をした。

 最近では、少しはわかるようになったけれども、それが音楽評論家のいうほどの大げさな違いとはどうしても思えないというのが実情だ。

 ところが、歌謡曲になると俄然違いがわかるのだ。最近大量に買い込んだ、ちあきなおみのCDに「矢切の渡し」がだぶっていて、それを聞いてみると異なるバージョンがあることがわかった。アレンジが違うからそれはもちろん誰にでもわかることなのだが、歌い方も微妙に違っていて、伝わる情感も随分ちがって感じられるのが妙に嬉しかった。

 民謡や浪曲や歌謡曲を聴いて育ったぼくには、やっぱりこういう音楽がいちばんぴったりくるようだ。


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