57 親の歳

2004.11


 今年は、高校2年生に漢文を週1時間、教えている。このところ、ずっと『論語』を読んでいる。一昔前は、『論語』なんて古くさい道徳的な教えの代表格として、若者からは、敬遠されたり、嫌悪されたりしていたものだが、今の学生はどう感じているのだろうか。調査したわけではないのでその辺はわからないが、ぼく自身はとても面白く読んでいる。

子曰く、「父母の年、知らざるべからさるなり。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼(おそ)る。」と。

「親の歳ぐらい覚えておけ。長寿なら、それを喜び、またそれ故の心配もするものだ。」といったような意味だ。つまりは「親孝行」の教えである。

 親には孝行せよ、親は大事にしろ、というようなことは、それこそ耳にタコができるほどの聞かされ続けた道徳律だ。けれども、ぼくは、恥ずかしながら今年漢文の教科書で初めてこの『論語』の一節を読み、ある種の驚きを感じたのである。確かに、ぼくは「親は大事にせよ。」というような言葉を今までに何度も聞いてきた。しかし、「親の歳ぐらいちゃんと把握しておけ。」というような言葉は一度も誰からも聞いたことがなかった。「親孝行」の概念は教わったが、具体的な実践方法を教わらなかったのだ。

 だからというわけではないが、ぼくは親不幸だった。大事にしなければいけないということは知ってはいたが、どうすることが大事にすることなのかについては知らなかった。高校生のとき、大学生のとき、教師になってからの数十年、親の歳をいつも正確に知っていたわけではない。誕生日をその都度祝い、その歳なりの心配をしてきたわけではない。そんなことが「親孝行」だなんて思いもしなかった。

 だから戦後の民主主義の教育は間違っていたなんてことは絶対に言いたくない。言いたくないが、こうした極めて具体的で実践的な道徳律が戦後の教育に欠けていたことはどうしても認めざるをえない。江戸時代なら、こんな言葉は寺子屋で何度も聞かされたことだろう。江戸時代の子供たちは親の歳だけはいつでも答えられたろう。今の高校生にそれができるだろうか。

 人間が人間らしく生きるためには、何らかの規範が必要である。その規範は、自ら決めて自らに課すべきだとぼくは思っている。けれども、それはたやすいことではない。まずは、外の規範を学ぶ必要があるだろう。『論語』も『聖書』も、そのためにぼくらの前にある。


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