56 歌声は秋風にのって
2004.11
亡くなった叔父は、民謡の名手だったということを通夜の席で初めて知った。新潟県大会ではいつも準優勝で、優勝できなかったのが心残りではあったらしいが、伊勢神宮奉納全日本民謡踊大会(というものがあることも初めて知ったが)に、今年も出場する予定だったというから、半端な人ではなかったわけだ。
ぼくも高校生の頃、民謡に凝っていたことがあるが、ただビクター少年民謡会のソノシートを聞いては覚え、自己流で歌っていたに過ぎず、大人になってから本格的に習ったなどということはない。
それでも、そんな民謡の名手が身内にいたなんていう発見はうれしいことだった。存命中に聞かせてもらえばよかったと悔やまれる。けれども、母に言わせると、叔父はとても謙虚な人で、どんなに頼んでもめったに歌うことはなく、たった一回聞いただけだったという。そのときは、マイクもないのに、鼓膜がビリビリふるえたそうだ。本当にきれいな声だった、その声を守るために、カラオケも絶対に歌わなかったんだってさ、と母は言った。
余震でときどき揺れる通夜のあと、翌日の葬儀の打ち合わせが行われていた。何でも、民謡仲間が30人近くきて、出棺のときに民謡を歌って送るということで、どこまで歌ったら霊柩車を発車させようとか、おかしいほど綿密な打ち合わせが行われていた。
翌日は、地震のこともすっかり忘れるほどの秋晴れだった。外に出ると、庭にはナツメの実が無数に実り、家並みの向こうには紅葉で色づいた黒姫山が見えた。(妙高山近くの黒姫山とは別の山だ。)
お棺にみんなで花を入れるとき、民謡会の二人が江差追分を尺八で奏でた。ぼくも死ぬまでに一度でいいから歌いたい歌だ。そして、出棺。
お棺が玄関を出たとき、家の門から20メートルほど離れたところに陣取った民謡会の人たちの歌が、まるで秋風のように聞こえてきた。新相馬節だ。叔父が好きだった歌だという。
「は〜、遙か彼方は相馬の山よ、相馬恋しや、懐かしや〜」
そのときは涙は出なかったが、不思議なことに書いている今、涙が出る。
見えている山は越後の山だ。相馬の山ではない。けれども、「遙かかなたに見える恋しい懐かしい山」は、やはりふるさとの原型ではないか。そしてそれはぼくらの魂のふるさとなのではないか。
ぼくより一歳年上の叔母が、「とーちゃん、聞こえるか?」と泣きながらつぶやいた。澄んだ秋空に、歌声はいつまでも響いていた。