55 グラグラお通夜

2004.10


 新潟中越地震から1週間たったが、その日、ぼくは新潟県にいた。

 旅行に出かけたわけではない。母の妹の夫、ぼくにとっては義理の叔父にあたる人の葬儀に、足の具合の悪い母の代理として出席するために十数年ぶりに訪れたのだ。出かける日の前日、何人かの人に、明日は新潟の親戚のお葬式に行ってくると言っていたので、その人たちにはかなり心配をかけてしまったが、母の郷は、同じ新潟県でも最も西よりの富山県境にある青海町(その隣が糸魚川市)なので被害はほとんどなかった。

 お通夜が自宅で行われるということで、親戚やら近所の人やらでごった返している時に、突然激しい揺れにおそわれた。初めから横揺れだったが、次第に揺れが激しくなり、これはただごとではないとすぐに知れた。祭壇の生花も蝋燭も倒れることはなかったから震度は多分5弱ぐらいだったのだろうが、あまり経験したことのない揺れだった。

 青海町は海沿いの町だから、すぐに津波のことを思った。テレビをつけると、震源が中越だとわかった。津波の心配は消えたが、小さな余震が続いた。トイレにいっても、船の中のようにゆらゆら揺れた。

 ようやく落ち着いて、お坊さんの読経が始まってしばらくして、猛烈な余震がきた。時間は最初のより短かったが、揺れはこっちの方が大きかった。家の柱がギシギシ不気味に鳴った。けれども、老若二人のお坊さんは、少なくとも表面上は全く動じることなくお経を読み続けた。50人ほどの会葬者でそれこそ立錐の余地もない居間だったが、だれも声を挙げることもなく、みんなでグラグラ揺れていた。

 こういう時だからお説教は短いだろうと思ったら、長かった。若い方のお坊さんだったが、人間は必ず死ぬということを心に刻み込まなければならないということを繰り返し語った。今頃は極楽で安らかに眠っていることでしょうなどといった慰めの言葉は一切なかった。いつかは死ぬのだという厳しい現実を見つめよということだけをひたすら語った。それは、浄土真宗にぼくが持っていたイメージとはずいぶんと違うものだった。

 通夜の儀式の後は酒席となり、越後の酒をしたたか飲んだから、その後の余震がどれくらいあったかは分からない。ただ上越新幹線が脱線し、十日町でも大きな被害が出ていることを知ったとき、いいようのない恐怖に襲われた。ほくほく線の十日町駅をぼくが通過したのは、地震発生のおよそ3時間前に過ぎなかったからだ。


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