49 人生サラサラ

2004.9


 人間というものは、時としてどうしようもない袋小路に入り込んで、にっちもさっちもいかなくなるものである。

 袋小路に入り込んでしまって身動きとれないというのは、本当は、錯覚である。どんな複雑な迷路だって、上空から見れば、あらゆるところが「出口」である。つまり、迷路の壁を上によじのぼればいいわけなのだ。迷路のどん詰まりで、行き場がないと思うのは、壁しか見ていないからだろう。壁伝いに行かなければならないという暗黙のルールを守っている、いや守らなければいけないと思っているからだろう。もちろん、実際の遊園地の迷路なら、それは当然のルールだが、人生の迷路にそんなルールがあるはずもない。

 「煮詰まってしまう」という言葉も使われる。もちろん、「煮込み」なら、「煮詰まらない」では始まらない。けれども、スープが煮詰まってしまったらそれはもうスープではない。煮詰まったスープは、味が濃くて、のど越しも悪いだろう。誰もそんなものは飲まない。「煮込み」みたいな人生が好きな人もいるようだが、人生すべからく「スープ」で行きたいものである。コンソメみたいに、すべての素材が溶け込んでしまって形を残さず、しかもあくまで透明に澄んでいる、なんていうのが最終的な理想だが、まだまだ修行の足りない未熟者としては、ポタージュどころか、具だくさんの「豚汁」なんかが差し当たりの目標となる。

 「煮詰まる」という状態は、具と具がぴったりと寄り添って、分離できなくなるという状態だ。朝から晩まで顔を付き合わせている嫁と姑がどうしても「煮詰まる」のは致し方ないところだ。友人でも、あんまり年がら年中ベタベタとくっついていると、やはり「煮詰まって」しまう。親子だってそうだ。

 人間関係ばかりではない。たとえば学生があんまり成績のことばかり考えていると、そこでも「煮詰まって」しまう。成績がすべてと思ってしまう。もっとも、煮詰まるぐらいでないと、成績もあがらないということもあるのかもしれない。けれども、袋小路のどん詰まりで、成績で煮詰まってしまって固まっているのはどう考えても健康的でない。

 分離すること。薄めること。分離するには、水を入れて薄めなくてはならない。サラサラが理想なのは、血液ばかりではない。人生サラサラも大事なのだ。サラサラになったら、迷路の上の青空を見ること。

 水のようにサラサラになれば、何処へでも流れていける。秋の雲のように。


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