47 伝わらない

2004.9


 教育について議論されると、決まって「伝えたいことが、なかなか伝わらない」という話になる。それで、どうしたらうまく伝えられるのかとか、なぜ伝わらなくなったのかとかいうことがさかんに話題になる。しかし、こうした議論の中では、「伝えたいことは、工夫すれば伝わるのだ」という大前提には、だれも疑いを差し挟まない。それがどうも不思議でならない。

 そもそも若い人に伝えるべきことが本当にあるのだろうか、なんてことを考えていては、おそらく教師などつとまらないだろうが、ぼくはいつも心の片隅で、そんなことばかり考えてきた。南の島かなんかで、毎日ぼんやり昼寝をしたり、海に沈む夕焼けを眺めてくらすような生活こそ人間の理想なのではないか。もちろん、そうした生活の中でも「伝えるべきこと」は必ずある。しかし、それら「伝えるべきこと」は、生きていくことに直結した智恵であるはずで、「伝わらなかった」ら命にかかわる類のことだろう。

 ところが今の学校教育の中で「伝えるべきこと」と教師たちが信じ込んでいることときたら、ほんとうにそれが大事なことなのかは誰も確信をもっていえないようなことばかりである。教師が必死になって「伝えよう」としても、生徒が必要性を感じなければ「伝わる」はずもない。だから、議論の行き着くところは「学ぼうとするモチベーションを高めよう」というようなところに落ち着く。

 まあ、それが正論である。けれども、基本的には「伝えようとしても、伝わらない」というのが人間の真実なのだ。なぜかといえば、人間はひどく勝手なもので、心の中では何を考えてるかわかったもんじゃないからである。早い話が、女房が「ご飯できましたよ。」と亭主に「伝えて」も、そのとき亭主が「飯はまだかなあ」と思っているとは限らない。そのとき亭主がパソコンの故障のことで頭がいっぱいだったとすれば、「ご飯できましたよ。」という女房の言葉は、ちっとも「伝わらない」。亭主は待てど暮らせど、食卓に現れないという次第だ。

 古い教え子などと話すと、そのころぼくが懸命に「伝えよう」としていたことなど全然覚えてなくて、どうでもいい変な話だけが「伝わっている」。そういう経験は誰にでもあるはずなのに、単なる笑い話として葬り去られ、そのことの本質的な意義については誰も言及しない。そういうところで教育が論じられても、ろくな結論がでるわけもないのである。


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